違いこそが神の本質であり、神様の意図だった。
ぼくが絶対神だと感じた神様の言葉にショックを受けたのは
違い、多様性をなかなか受け入れられない自分がいることを常々認識していたからだった。
違いこそが神なんだよ。私の本質なんだ。
この言葉を聞いて本当に驚いてしまった。
そして、驚いてはいるけれど
同時にぼくの直感はやはりこの神様が言っていることが真実なのだと瞬時に分かってしまった。
だからこそショックだった。
だってこの神様の言っていることが真実だと認定してしまったぼくは
すぐさま違うことを神様の言葉だと発信している人を見つけると
嘘つき、偽物として糾弾、排除しようとする心が動き出す。
そもそも日常生活でイラついた時って
ほぼ何らかの違いに対して不快感を感じたことに端を発している。
具体的な例だと
自分が詳しいジャンル、大切にしているジャンルにおいて
ぼくの場合ならば心身、野口整体において
違いが受け入れられず排除、否定してしまおうとする。
始発電車に乗ろうと並んでいたら
乗車時に横から入ろうとしてきた奴がいたとき。
瞬時に怒りが、しかも強烈に湧き起こる。
彼らとの違いを受け入れられない。
それどころか消えてしまえと思う。
独裁者に対しては消えてくれ
どころか死ねばいいと思ってる。
ところが、その違いこそが神だなんて。
違いの中に愛を見出すことはできるかな?
それだけが神様が人間のぼくらに伝えたいことなんだって。
今のぼくは全然違いの中に愛を見出せていない。
だからこそ神様の言葉をスルーできなかった。
うーん、って絶句してしまった。
違いを感じた時に静かに神を見出してほしいって。
それはぼくの解釈で言葉を変えると
違いを感じた時に自動思考に飲み込まれるんじゃなくって
静かにカラダを感じて
至福感を感じて神と繋がっていられるかってことだった。
その日の整体指導を終え
ビルの共同トイレに行ったら
狭いトイレの床がビチャビチャになっていた。
たぶん先ほど大きな音をたててトイレを使っていた下のフロアの人の仕業だ。
どうしたらこんなに濡らして使うことが出来るんだとイラッとする。
平日午前中はビル管理の方がトイレの清掃をしてくれているが今は夜。
とりあえず自分で濡れている床をトイレットペーパーを使って清掃を始めた。
整体指導をしているときの心境とはうって変わって心がイラついたことで
「違いこそが神なんだ」と言う神様の言葉を思い出した。
そう話されたのは「神との対話」の神様と同じ方。(と、直感が判断した)
むかし「神との対話」を読んだ時は、今ほどは共鳴しなかった。
同じ神様の言葉なら
いま再び「神との対話」を読んでみたら、昔とは違った気づきがあるかも。
そう思って再び読み始めたばかり。
やっぱりサトミさんが書き記してくれた内容と併せて読むと理解が進む。
なぜ神がこの宇宙を作ったのか。
違いを体験したくて
みずからを分けて、この宇宙を創造し始めたんだって。
誰が創始したのか不明な神道。
神道ではぼくらの魂を分け御霊と呼ぶ。
そして絶対神が大元の御霊。
かつて絶対神しか存在していなかったときには
絶対神しか存在してなかったので比較、対照が出来なかった。
そもそも概念として知ってはいても体験することが出来なかった。
愛という概念を知っていても体験できない。
自らを分けて創造することで初めて比較、対照が可能になり、
愛の対極にある不安を感じる体験が可能になって
概念ではない愛の体験が可能になった。
その分けて創造された存在がぼくたち。
というか今の宇宙のすべて、万物。
ぼくたちの本質も神であり、永遠に旅をしている意識体。
先ほどまで整体指導を行っていたときは
カラダを感じながら自分が好きな愉気を行っていたので
心は穏やかで、脳内も静まっていた。
ところがトイレが汚されているのを見た瞬間に
イラついて脳内がザワザワし始めた。
穏やかで、至福の体感を体験していたのが、
自分とは違ったトイレの使い方を目撃して
イライラして怒りを体験していた。
神様の言葉を借りるなら
この体験こそが、神様が宇宙を創造した目的なんだ。
そう思い至った。
ビチャビチャになっていた床を拭きながら
違いこそが神の本質なんだと言っていた神様の意図になるほど〜と思い至った。
面白いことに神様の意図に気付いた瞬間に
ぼくの中のイライラは消失していた。
※気づきのきっけとなったサトミさんと神様の会話