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くろちゃんと三男

(※うちの天真爛漫な三男坊とカマキリのくろちゃん、夏の記録。)

夏の始まりの大雨から数日経ったある日、玄関に干しっぱなしにしていたランドセルカバーを片付けようと持ち上げると、そこに1匹のカマキリがいた。いつからそこにいたんだろう。
ランドセルにずっとくっついてきたんだろうか。
それとも玄関に迷いこみ、カバーの作る黄色い空間が安全に見えて、入り込んだんだろうか。
まだ小さい子どものようで、みずみずしい黄緑色の体をしている。カマもまだ小さい。
せっかくだから3人の息子たちにじっくりと見せてから放とうと、軽い気持ちで虫かごに入れた。息子たちはすぐに夢中になった。
次男はカマの力を確かめようと、時々捕まえては自分の指を差し出している。三男も恐る恐る捕まえて、まだ人を傷つけるほどの力のないカマに少しほっとして、そして誰よりも熱心に見つめていた。
「おなか、すいてるかもねぇ」
庭に出てバッタを捕らえ、虫かごの中に放り込む。
ほどなくその小さなカマでバッタをがっしとつかむと、むしゃむしゃと食べ始めた。
バッタはすぐに観念したかのように抵抗をやめ、次第に生気が抜け落ち、その体が小さくなっていく。
虫の捕食する姿を間近に観察する経験は、あまりなかったかもしれない。
ついさっきまで生きて動いていた命がむしゃむしゃとカマキリの中に取り込まれていく様を、言葉もなくじっと見つめる三男。
まだ小さくか弱くも見えたカマキリのもつ野生に、少し圧倒された様子だ。

その夢中になった目を見て、もう少し観察を続けてみようかと、そのまま虫かごに入れて飼うことにした。リビングのテレビの横が彼の定位置になった。
百均で買った小さな虫かごに、足場になるように数本の枝を入れる。網目状の黒い蓋が、人間の視線を遮り身を隠す好位置に思えたのか、いつも蓋に足をかけてぶら下がっている。体は少し黒みがかった茶色になってきた。
何日かバッタを放り込みその捕食する姿を観察するうち、彼に名前をつけようということになった。
黒い体をしているので、くろのすけ、通称くろちゃんと命名された。

「飼いたいならえさも毎日入れてあげなよ」と言うが、バッタを手でつかむのがまだ少し怖い三男はなかなか捕りに行こうとしない。
「おなか空かせてるかも、あの子」と思うと、にわかに焦燥感にかられほおっておけなくなるのは母の性か。
結局、私が朝、草木に水やりに出たついでにバッタを捕まえて帰るのが日課となった。

ある朝、虫かごの底に透き通った何かがいる。くろちゃんが脱皮したのだ。一皮むけたくろちゃんは、少し大人っぽい容姿に変化していた。
大興奮の三男。ご近所の友達の家には、脱皮を伝える三男作成の新聞が配られた。
食欲も増し、小さなバッタはあっという間に食べてしまう。でもくろちゃんよりも小さくて大きめのという条件で探し始めると、なかなかに程良い大きさのバッタが見つからない。
餌探しが少し困難になり、私はこの役割を投げ出そうと心に決めた。くろちゃんが死ぬ、その心の痛みを味わうこともまた大切な経験だ。
もう餌の世話はしない、心を鬼にした。そんな時に、目の前をちょうどいいサイズのバッタが横切る。
心の中で「くろちゃん!」と叫びながら反射的に手を伸ばす私。もうすでに私の生活の中にもくろちゃんは存在してしまっていた。

また数日するとくろちゃんがあまり食べない日が続いた。バッタが飽きたのかな?と、チョウやトンボを入れてみたりして、それでも食べようとしない。
そして2〜3日が経って、また脱皮した。
脱皮したくろちゃんはお腹の部分がふっくらとして貫禄を増し、そのお腹を覆う羽もまるでマントのようだ。カマも力強くなり、力競べをしていた次男の指先に血がにじむようになった。明らかにかっこいい度が増した。自分の体よりも大きいバッタを、むしゃむしゃと豪快に食べるようになった。

そんなくろちゃんとの別れの日が近づいていた。
数日の家族旅行に出る予定があったのだ。
餌の確保に疲れていた私はこの好機を逃すまいと、「旅行に出る前にくろちゃんは庭に放してあげようね」と話していた。
「旅行にも連れて行く」と言う三男。
「でも、旅行先にエサがあるとは限らへんよ。暑い車の中に置いとかれへんし、旅行に連れて行くのはくろちゃんにとってはしんどいことやからね」と私。
三男は黙ってそれを聞きながら、飲み込みきってはいない様子だ。

旅行の前日、ちょうど雨が上がり、今くろちゃんとお別れしようと提案した。玄関で虫かごの蓋を開く。
ゆっくりと外へ出て行くくろちゃん。
突然目の前にひらけた広大な世界に驚いたのか、すぐには離れようとしない。
それどころか、横に置いた虫かごの中へ戻ってこようとする。
「やっぱりカゴの中がいいんやん!」という三男の言葉を遮って、長男が草むらにくろちゃんを移動させた。
三男はしばらくそのくろちゃんを眺めていた。
諦めて一度家に入り、しばらくしてから「くろちゃん、もうどこかに行ったかなぁ?」と話しかけると、また庭に出て行った三男。
お別れした場所にくろちゃんはもう、いなかった。
部屋に戻ってきた三男は、号泣した。
近頃見なくなっていた号泣だ。お兄ちゃん達と喧嘩をしても、これほどには泣かない。しゃっくりあげてくろちゃんの名を呼びながら泣き続け、そして疲れて眠ってしまった。

その後もくろちゃんの名前が出ると、何かが溢れ出すのをぐっと堪えるように、きゅっと口を結ぶ三男。
くろちゃんがくれた大切なものを胸に抱いて、
夏休み、終わり。

2022/08/31

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