【エッセイ】みんなと同じように、前向きになれなくても、どうにかなったって思える今。
私たちの周辺にはいつも、競争や比較がつきまといます。加わりたくないのに、勝手に対象にされて、勝ったとか負けたとか。大きいことから小さなことまで、嫌というほど体験しました。
学歴だとか、肩書だとか、家系だとか。もうそんなのいいじゃないですか。中には、学びたいことを選ばす、ネームバリューだけで、学校や仕事を選んで、その場所に行くことが苦になって、挫折した人もいました。そして、自ら、今まで親しくしていた人と離れてゆきました。とても寂しかった。
SNSでもそんなことを苦にする人がいました。とても良い文章を書く人なのに「これぐらいのフォロワーじゃだめだ。」「フォロワー数が伸びない。」人を楽しませる文章を書く人なのに、比較する対象を、自分よりも、もっともっと大勢のフォロワーさんのサイトと比べてしまって、結局「私はダメです。疲れました。」とサイトを閉じてしまわれたり。とても寂しかった。
寂しさといえば、過去に、私が関わったことが、ほんの一瞬だけど、注目されたことがありました。あの時の変化は、今でも覚えています。今まで挨拶しても、相槌のみだった方が自ら話しかけてきたり。「もっと、上を目指せよ!」と肩を大きく叩いてくる方もいたり。「どうして、そうなったの?」という方など、急に周辺に人が増えて。
ですが、そんなことは一時的なもの。あっという間。蜘蛛の子を散らしたように人はいなくなりました。時間が過ぎたらこうなるのは、当たり前のことなのですが、その時の人の引きの怖さは忘れられません。私は私のはず。何も変わらないはずなのに、人がいなくなっただけなのに、一気に私は、下降線をたどるダメダメ人間になったような気がしたのです。
元の私を取り戻すまで、しばし、時間を要しました。「もっと前向きになれ」だとか「前進あるのみ」などという言葉が、耳もとを幾度か通り過ぎましたが、そんな言葉、当時、足もとしか見ることができない私に響くはずもありませんでした。
前向きって、上を目指すって、何なのでしょう。前を向いてしっかりと前進してゆく。その姿はとても美しいものだと思います。ですが、無理してそんなことをしても続かないし、人によっては強がりだったり、痛々しく映るに違いありません。
落ち込んだとき「顔をあげて空をみよう」っていう言葉もありますが、本当に辛いときは、辛い顔を見られて心配させたくないし、何か言われて傷つきたくもありません。重たい顔を上げられない時、私は水たまりに映る空をみます。それさえも無理な時は、ガラスコップに窓の外の空の光を映して、その水を飲みほしたりします。それが、顔を上げることさえ辛いときの、私の精一杯なのです。ダメダメ人間っていわれてもかまいません。私はいつもの私を続けたい。そのために、そうするだけなのです。
今はナンダカンダ、おだやかな日々です。そして、今でも変わらずお付き合いしてくださる方がいることにも、気づくことができました。本当にありがたいことです。私は同じように思える人と繋がっていたいです。
プライベート。みんなにこっちが前だっていわれて、その立ち位置がみんなよりも、ずいぶん後ろになったとしても、ふりかえって、こっちが私の前だよって、そっぽを向いたってかまわないと思います。人生を楽しむ方向の前向きは、東西南北、どの方向でもいいのだと、自分自身が楽しみの前方を決めてもいいのだと思います。
私たちは、たかが人間です。これっぽっちの人間です。空の広さには、かないっこありません。
最近、何年かぶりに大きな公園にいきました。
そこには、人間だけでなく、動物も植物もいました。
多くの人が、それぞれの方向でそれぞれに好きなことをたのしんでいました。動物をみたり。動物になったり。人間になり切って、思いっきり、おなかを抱えて笑っている人もいました。
どこかで「こっちに来て~。」という男の子の声。「こっちがいい~。」と、そっぽをむいて違うエリアの動物を見続ける、たのしそうな女の子の目。
一人で一生懸命に風景を撮影する人の姿。一人でベンチにすわって、物思いに浸って、のんびりとジュースを飲む人の姿。
眩しい初夏のような陽気。見ている方向は、それぞれに違うけれど、みんな大きな空の下。楽しむという前方のエリア。同じところにいました。