人生の虚無について

 去年の春、死のうと思った。最後に逢いたい人がいた。当時親しかった、恋愛関係ではない年下の女である。誘って、逢った。僕の内より発せられた絶望の黒い光に照らされて見る女の顔は、ひどく醜かった。
 その日、海外小説を買った。中学以来、文学には触れていなかったのにである。『蠅の王』という題であった。無様に死にゆく一人の男の墓標に、うってつけの題名だと思ったからである。女への見栄でもあった。

 キザな文章だ。著者の貼り付けたような気難しい顔と、誰が見ているでもないのに、気取って顎に手を当て、思考の深遠を衒う様子が目に浮かぶようである。ところでこの文章にはオチがある。この男は死ぬつもりで女と逢ったはずなのに、買った小説に夢中になり、読み終えてもすぐに他の作品を読み始め、という具合にすっかり文学の虜になり、ついに死ぬのを忘れてしまった。
 そしてそんな常識外れの滑稽を自ら演じ切ってみせたのが、まさに僕なのである。これは僕の去年の実体験である。自殺をバカをやる口実のように利用している。処世術のように扱っている。呑気なものであると、過去の自分を多少軽蔑してみる。
 しかし、当時死のうと思ったことが嘘かと問われれば、必ずしもそうではなかったと答えることになる。そもそも、人は死のうと思っただけでは死ねないようにできているようなのである。

 昔から、人生の一切が虚無に感じることがあった。人はいずれ死ぬ。死ねば手に入れた物も、蓄えた知識も、磨き上げた技術もすべて失う。幸福な瞬間は刻一刻と過去に変わり、思い出として褪せていく。それゆえに人は本当の意味では何も所有できず、一切は努力に値せず、意味を持ち得ない。したがって人生は空虚なものであり、唯一の合理的な回答が自殺、無意味な生にさっさとピリオドを打つことであると考えたことが何度もある。
 しかし僕はまだ生きている。来月で21歳、健康である。先述した考えを初めて抱いて、少なくとも5年は経ったはずである。永遠にピリオドを打ち得ず、小さなカンマを控えめに打ち続ける人生である。

 何が僕を生かすのか?それは僕の「肉体」である。人間を精神と肉体の二元論的に捉えるのなら、死を望むのは精神のほうである。
 試しに目を閉じて、心の中で「死ね」と一言唱えたとする。結果気付くのはいつまで経っても死ねないことと、理性の命令に反して、我関せずといった様子で休まず働き続ける気の利かない心臓の脈動である。我々の意志などとは無関係に、肉体は絶えず我々を生かそうとする。精神がその巻き添えを食らうのである。

 我々が生きるのは、生に意味があるからではない。ただ肉体に生かされているからである。そして肉体は生そのものを目的に、ただ生きようとする。そこに、人生の目標だとか、世のため人のためだとか、我々が普段使う意味での「生き甲斐」が介入する余地はない。やはり人生は虚無である。しかし自殺を成し遂げるには肉体の命令を躱せるくらいに消耗する必要がある。これは自分の意志でできることではない。どうしたものか。健康体の僕はまだまだ死ねそうにはないので、もっと探求してみることにする。

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