塾講師バイトの葛藤
大学受験を終えても塾なんかで働いているのは、第一志望を諦めた僕の未練ゆえだろうか。
僕は1年間の浪人の末、第一志望を諦め、2年目、すなわち現役のときと合わせて3度目の受験で確実に受かる大学へと志望校を変更し、無事合格。そして高校時代に通っていた塾で、個別指導の講師として働き始めたという、いかにも高校時代を勉強に捧げた大学生にありがちな、平々凡々たる道を辿っている。しかし受験業界という不毛な場所で、どうにも慣れないことがある。
塾の研修では褒めて伸ばすとか、褒めて勉強のやる気を出させるとか言う風に教わったのだが(結局は客である生徒へのサービスである)、勉強に苦痛を耐えて努力するほどの価値があるのか、僕にはそれがわからないのである。
僕は勉強が好きだった。特に好きだったのは物理で、理性だけを携えて世界を理解する努力の過程には大変心を惹かれた。好き、とまではいかなくとも、少なくとも得意ではあった英語も、現在、僕の文学趣味の役に立っている。読みにくい翻訳調の日本語ではなく、原文のまま小説を読むことには、微かな満足がある。
僕は大学に入試という制度が無くとも勉強していたと思う(もちろん古文や地理はやらなかっただろうが)。将来のためではなく、知識そのもののための勉強が大半だった。
それゆえに、将来のために勉強をするべきだ、などと僕の口から言ってしまうとポジショントークになってしまう。
しかし塾で働いてわかった(もちろん働く前から察してはいた)が、ほとんどの高校生にとって勉強は単なる大学に入るための道具に過ぎないようである。もっと言うと、大学で学びたいことすらはっきりしていない、というより、可能なら何も学びたくなどない、といった風でさえある。それならどうして大学に行くのか。それはもちろん就職、より広く言うなら将来のためだろう。
現代の高校生は、周りの圧力に押され、漠然とある将来への不安を払拭するために、直接は関係のない古文漢文やら数学やらをやらされている。もちろんこんなことは世間でも周知の事実だし、何も新しいことは言っていないのだが、納得できないのは講師としての僕の努力が甲斐ないことである。豊かな将来を望む生徒に、惑星の運動を教える。これでは馬の耳と念仏以上のミスマッチである。ナンセンスである。
先述したように、僕は実利的な観点での勉強の価値を知らないし、勉強嫌いの生徒に勉強をするよう強く言うこともできない。それならせめて僕にできることは、僕が学問に熱中した理由、物理や数学の面白さ、学問の深淵の一端を伝えることになるのだろうか。勉強が好き、などと言うと変人の扱いを受けることは知っている。しかし僕は僕がしてきた勉強との向き合い方しか知らないのだから、僕は人格者でも現実主義者でもなく、道化の役を買って出る。