すでにそうである
甘えられる場所や存在があることで私たちは救われる。
それは恋愛相手だったり、友達だったり、その中でも一番パワフルなのは自分という存在だと思う。
殊、散々ダメダメな自分をさらけ出して受け入れられてきたところでは、そんな私であるから愛される自分、あるいは愛されている自分を感じることができるためにダメダメな私であり続け、強化していく。
そうしているとそこでは愛を感じられたはずなのに、
離れると感じられないその落差が耐えられなくなってますます依存が進む。そして執着になる。
他ではそんな自立できない自分を否定し続けまたこんな自分を受け入れてくれるところを求め続ける。
という永久にどこへも行かないスパイラルに安住する。
ここにいられるうちは本人は苦しがっているようでいてこれを望んでいる訳でもあり、この中で密と毒に溺れながら生きていく人もきっといる。
厄介でラッキーなのが、ここに違和感を感じた人たち。
私は本当にダメダメなのか。
ずっとダメダメで生きていきたいのか。
これは本当の愛なのか。
つまり、
私は本当はダメダメじゃない(ところもある)、
これまでもこれからもずっと全てがダメダメ(なわけじゃない、そんなわけがない)、
これが本当の愛だとしたら(どうして満ちないのだろう)、
と気づいてしまった人はここから抜けることができる。
なぜなら
すでに、本当は、私はそう(ダメダメ)ではない、ことを知っているから。
我々の多くは防衛本能で無意識に「ある」ことよりも「ない」ことに関心を向ける傾向がある。
光がないと陰は見えないように、「ない」を感じるということは同時に「ある」ことと「ある」可能性も感じている。
誰もが「ある」もあるし、「ない」もある。
ただ、どちらに意識を向けるかでモノの観方、感じ方、つまりは現実、生きる世界が変わってくる。
「ある」私を感じていきたいのであれば、すでに「ある」私を意識、フォーカスする。誰も止めていない。
私がただ確かに「ある」こともあることを認め、ある」私を生きていい、生きたい、生きると決められる。
私たち極端な片方、片側だけではできてない。
「ある」をあると受け入れられた時、「ない」もある私も同時に受け入れている。「ない」ことで「ある」ことも知っているから「ない」ことも愛おしい。
そんな“私”ほど最強なものはない。
小さなこんなに「ある」私を感じるほど「ある」は「ない」を凌駕していく。
「ない」はチャーミングでポジティヴな存在になっていく。
どこに居場所を求めなくとも自分の中にありのままの自分でいられる場所がある。
そしてこれはいつでもどこにでも持って行ける。
もう気づいてしまった、
すでにそうである私
を今生きている
は今すぐここから私が始められる。
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