実存のパラドックス—生きづらさの源泉とは—

もっとも手に入れたいもの(X)こそ、すなわち、もっとも手に入れることの困難なものである。

例えば先天的な身体障害のため不妊を宿命づけられた女性がいたとする。この女性はおよそ理想的なパートナーにも恵まれ、金銭的にも環境的にもなに不自由ない結婚生活を送っている。さて彼女の唯一の望みは愛しいパートナーとの愛の結晶である子供を儲けることである。しかし彼女にはそれが叶わない。彼女の絶望の源泉はまさにそこにある。叶わない望みだからこそ、もっとも強く希求してしまう。一見して矛盾めいて見えてしまうような状況に彼女は陥っているわけである。

上記に挙げた不妊の女性の例はほんの一例に過ぎない。命題の「X」には「子供」だけでなく、人の数だけ色々なものが当てはまる。「富」「愛」「才能」「容姿」「境遇」「待遇」「健全な身体」……etc。おそらくそれを持たない人も一定数いるだろう。

ここで指摘したいのが、最初に提示した命題には論理的な矛盾点は一見してどこにもないということだ。この命題の対偶を提示してみよう。

もっとも簡単に手に入れられるもの(X)こそ、もっとも手に入れたくないものである。

この文章だと一見して矛盾しているように感じる。なぜか。ひとつは「もっとも」「困難」「簡単」といった言葉の曖昧性によるものである。個人の使用によって尺度が大きく異なる言葉なので杓子定規の論理に当てはめるのは難しい。二つ目は「もっとも入手が困難なもの」が(大抵の人は)片手で数えきれるほどなのに対して、「もっとも簡単に手に入れられるもの」は無数にあるものだという点で非対称性が生じているからである。なのでこうニュアンスを少々変化させてみよう。

もっとも簡単に手に入れられるものは、(もっとも)入手したとしてもどうでもいいものである。

こうすればある程度意味が伝わるだろう。この命題の妥当性は担保されている。しかし、私は(私だけではないと信じたいが)先ほど述べた通り、この命題がとても矛盾したものに感じる。繰り返すが、私はまさにXこそを欲しているのに、そのXこそがもっとも手から離れているものなのだから。この世界の構造に理不尽——憤りのようなものを感じざずにはいられない。それはおそらく生の次元、実存の領域において発出される矛盾なのではないか。この命題を私は差し当たり「実存のパラドックス」と呼称していきたい。この関係はカミュが『シーシュポスの神話』で定義づけた不条理の特質によく似ている。「この世界が理性では割り切れず、しかも人間の奥底には明晰を求める死に物狂いの願望が激しく鳴り響いていて、この両者が相対峙したままである状態」(もちろん、Xには「不条理な世界の克服」も当てはまるだろう)。

さらに注意を加えたいのは「欲望」と「願望」の相違である。「なによりもモンスターエナジーが今一番飲みたい」という言明と「なによりも自分の子供が一番欲しい」という言明を比較しよう。前者が「欲望」に相当し、後者が「願望」に相当する。両者とも一番欲しいものを表明しているが、両者には埋め難い懸隔がある。欲望は「今」という短期的な期間内で生起するという意味で「刹那的な欲求」である。願望は人生の長期にわたって付き纏う(ともすればそれは、最期の時まで消滅しないかもしれない)長期的な期間内で生起するという意味で「恒久的な欲求」である。実存のパラドックスは「欲望」ではなく「願望」においてのみ当てはまると考えた方が妥当だろう。よしんばXの入手が満たされたとしても、X未満だったX‘が台頭して後件の「もっとも入手の困難なもの」の座に収まってしまう。その終わりのない運動がもたらす悲劇もまた、これまで映画や小説で幾度もなく描写されてきたではないか。

正直、上記の議論がどこまで的を得ているか、哲学的な深みにどこまで達しているかどうか自信がない。忌憚ない意見を頂けたら幸いである。また、似たような内容の議論が他にあったら是非ともご教授願いたい。それでは。

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