松本盆地は、昔、湖だった...のか? (3)
泉小太郎の民話で語られる、松本盆地が昔は湖だったという伝承を検証しています。今回はその第3回目です。
第1回目では、山の中なのにやたらと海や舟に関係する地名や伝承が多いことをみました。
第2回目では、そこから標高600m辺りに湖水面があったとして、湖の大きさを確認しました。上の見出し画像で、水色の部分が湖と想定した範囲になります。
第3回目の今回は、湖だったという裏付けを、地名や伝承だけでなく、遺跡や地質の面から確認できないだろうか、という趣旨で進めたいと思います。
話の前提
まず、検証の前提として、話が発散しないように、ある程度時代を絞ろうと思います。
前回でも軽く触れましたが、あくまで伝承ありきという前提の上で、
1.伝承、口伝として成立するためには、それ(巨大な湖、あるいは湖が消えること)を見た人がいないといけない。
2.舟が着いたという話が成立するためには、舟に関する知識があり、舟を使用した生活をしている必要がある。
という2つの初期条件を満たす必要があると考えます。
いつ頃から人が住んでいたか
松本盆地周辺に人がいつ頃から住んでいたか。正確にはわかりませんが、とっかかりとして黒曜石を挙げようと思います。
黒曜石の一大産地として知られる和田峠では、旧石器時代から人が生活していたことが分かっています。和田峠で産出される黒曜石は、遠くは北海道でも出土していることから、産地から各地への流通ルートがあっただろうとされています。
和田峠は松本盆地から距離的に少し離れていますが、流通ルートまで含めて考えれば、旧石器時代に松本盆地周辺に人が住んでいたとしても、そこまで突飛な話ではないと思います。
遺構や遺物の出土状況を確認すると、松本市域では旧石器時代最期の頃の遺物が出土しています。
また、縄文早期の遺物も出ていることから考えて、約1万2千年前(BC10000年)頃にはこの地域に人がいたと仮定しましょう。
舟が使われたのはいつからか
舟を使用した生活をしていたとすると、いつ頃の時代を想定すればいいでしょうか。
現在のところ、旧石器時代の舟は見つかっていないものの、全国の遺物の出土状況から、旧石器時代には舟を使用していたであろうといわれています。縄文時代になると、舟の利用は確実のようです。
舟という切り口からも、湖の存在を1万2000年前頃に仮定するのは大外れではなさそうです。
地形の変化があったか
では、BC1万年頃に、今見ることができる地形と大きな違いがあったでしょうか。地形の違いは、湖の存在とその大きさの要因となります。
考えられる要素は、河川の堆積や下刻作用による変化、地震による変化、火山活動による変化が思い当たります。
もし山清路近くでそのような地形の変化が起こっていることが分かれば、湖の存在や蹴裂伝説の史実性が裏付けられることになると思います。
なにせ、このあたりは有名なフォッサマグナにあたる場所ですし、西には焼岳やアカンダナ山といった活火山もある地です。
そもそも日本アルプスは現在も隆起しつつあり※、地形・地質的な変化が活発な地域と言っていいでしょう。現に大正池は大正4年(1915年)の焼岳の噴火によって梓川が堰止められたためにできたことは有名です。
※ 日本アルプスでは約4mm/年の隆起がみられる場所がある[1]らしい。
文字や絵図による記録は期待できませんから、地質資料や考古学資料から、この頃に大きな変化があったかどうか調べてみたところ、1万2千年前頃にこのあたりの地形が激変したという報告を見つけることができませんでした。
もっと年代が遡れば別ですが、想定する年代に大きな湖が丸々無くなる程の大規模な変化は発生していないようです。
そして伝説へ
そういうわけで、今回の前提に立つ限り、残念ながら、巨大湖の存在や蹴裂伝説はあくまで伝承で史実ではない、というのが現状での妥当な結論のようです。
安曇野市合併前に刊行された『豊科町誌 歴史編・民俗編・水利編』[2]には、
地形的に見て氾濫原が大部分で、豊科町に人が住み始めたのは古墳~平安に入ってからと考えられる。
と書かれています。
松本平一帯で縄文遺跡が発見されるのは山の麓が多いことも踏まえると、泉小太郎伝承で湖だったといわれる地域は、弥生時代あたりまで湿地帯で、生活するには適さない場所だった可能性が高いと思われます。
もしかしたら、小舟が行き来できる程度の湿地があったかもしれません。年が経るにつれて湿地が徐々に開墾され、人々が生活を始めたという事柄が、巨大湖の伝承や蹴裂伝説となって伝えられているのでしょう。
まとめ
約1万2千年前に巨大な湖があった、又は湖が消失したことが、泉小太郎の民話となったと仮定して、地質や考古学的な資料を調べてみました。
ところが、仮定した年代に湖の消失を裏付ける地形や考古学的資料が見つからないことから、やはり民話は史実ではなさそうだという、極めて消極的な結論となりました。
この地域は湿地帯で生活に適さなかった場所であったが、時代が下るにつれて生活できるようになり、そういった経験が蹴裂伝説となって伝えられているのだと考えられます。
参考文献
[1] 平林照雄. フォッサ・マグナ -信州の地下を探る-. 信濃毎日新聞社, 1988.
[2] 豊科町編纂委員会. 豊科町誌 歴史編・民俗編・水利編. 1995.