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#習作 涙の行方

本文約1500字・読了10分程度

1 涙の行方

僕が4歳の時、おばあちゃんが死んだ。たしか、その時、僕は不思議と悲しいと思わなかった。「死」ということが何なのかよく理解できなかったのかもしれない。季節が順を追って過ぎるように、おじいちゃんも死んでしまった。その時、そのときにはもう小学校三年生だったからだと思う、僕はさめざめと泣き、泣き明かしたことを覚えている。

おじいちゃんの危篤状態が数日続く間、僕は平然と学校に通っていた。学校に行き、家に帰るとそこからすぐ近くの滋賀の病院へと、京阪の路面電車で向かうという具合だった。

命日。
その日もまた僕は、普段と変わらず、ミョウガの入った味噌汁、納豆そして白米を食べて、集団登校をして行った。給食袋を忘れないようにと、一度、ランドセルを見てから家をでたのだと思う。母の顔は見ずに、声だけを聞いていた。もちろん学校から帰ったら滋賀へ行く気でいた。こんな生活がこれからもずっと続くのだと考えていた。だから、放課後のサッカーも断ったし、帰りには息を切らして、駆け足で帰った。けれど、家に帰ると、おじいちゃんはすでに死んでいた。好きだったテレビ番組を見逃したのと同じように、教えてくれたのだ。
「なぜ死んだときにすぐに知らせてくれなかったの」
そう、僕は母を攻めたと思う。
母は「容態が急変し、病院にいた自分でさえもなんとか死に目に会えたぐらいの時間的余裕しかなかったの。だから僕を呼んでいる暇もなかったのよ」と言ったが、その時の僕には言い訳にしか聞こえなかった。
僕は病院へ向かう道中も母を攻め立て続けた。京阪電車に乗り合わせた乗客からすれば、まさに手がつけられなくなった駄駄っ子にしか見えなかったかもしれない。それでも、母は、大泣きしている僕を叱るでもなく、大津に着くのを静かに待っていた。手を繋いで待っていてくれた。

何度も何度も来た病院だった。そして、ついさっきまでは毎日のように通うつもりでもいた病院だった。でも、この日の病院の門扉は、夜の小学校と同じで、まるで野良犬が口を開いて待っているような入り口にみえた。
僕はてっきり霊安室に向かうとばかり思っていたけれど、実際にはいつもの病室にいつものようにおじいちゃんは寝ていた。
「いまから死んでいるおじいちゃんと対面する」
そう思ったからかもしれない。
昨日まではあれだけふくよかだった、おじいちゃんの顔が、突然、髑髏(しゃれこうべ)が浮き出たガイコツのように見えた。

− ガイコツは目を瞑ったまま横たわっていた。
− ガイコツはピクリとも体を動かさない。
− ガイコツの手にはぬくもりがなかった。

ほんとうは、多少のぬくもりはあったのだけれど、それはカエルやヤモリのようなそれであった。だから僕にとってぬくもりはないにも等しかった。

僕の中で、そのガイコツがおじいちゃんなのだと、もう一度気がついたのは、その晩、ずいぶんと遅目の夕飯を自宅で食べているときだった。おじいちゃんが緊急入院した数日前から食事は両親と僕の三人分しかでてこない。僕はそれに慣れた気でいたのだけれど、この日は違った。夕飯は、是見よがしに三人分しか出てこなかったのだ。僕には「これからは三人でご飯をたべるのよ」という母の言葉が、「これからは真ん中に俺が座るんだよ」という父の言葉がプレートに乗っかっているような気がしてならなかった。
3枚のプレートには、茶色い揚げ物がのっているだけだった。味噌汁には、今朝あったはずのミョウガはもうなくって、ただただ砂のような味噌が底で沈殿していた。くっきりと二つ、上と下に層を作っていた。
「もう、おじいちゃんとご飯を食べることはできなくなる」
そう思うと、無性におじいちゃんが好んで食べていた薄荷ドロップが懐かしくなった。その途端、僕の目には涙が溢れてきた。涙は自分では止められなくって、呼吸が乱れた。息も絶え絶えで、時より吃逆(しゃっくり)が混じった。泣いていることを隠そうとして味噌汁を飲み込んだ。涙か味噌汁か、どちらのせいかわからないけれど、少しだけしょっぱかった。

―――そうだったのか。だから人が死ぬときに「お塩」を振るのか。
その晩、僕の涙は枯れることがなかった。
しょっぱい涙はだんだんとガイコツを清めていった。
(了)

2 著者情報

著作:ハヒフ
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ハヒフ
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