【絵本分析】 『アレクサンダとぜんまいねずみ』~本編(前半)~
こんにちは!
ぎり女子大生と申します。
絵本『アレクサンダとぜんまいねずみ』を、
私なりに分析しています。
今回はその本編(前半)です。
1. ねずみという存在
まず、主人公アレクサンダはねずみ、ウィリーもぜんまい「ねずみ」なので、
「ねずみとはどんな存在か」について論じます。
「ねずみ」という動物に対し、「汚い」「嫌われ者」のイメージを抱くのは、世界共通ですね。ねずみは農作物や食料品を食い荒らしたり、家財を破損させたり、病原菌を媒介とする、極めて有害な動物と認識されています。
この作品も、アレクサンダを見た人間が悲鳴をあげるところから始まります。人間は、「助けて!」と叫び、食器を割ってしまうほどのショックを受けています。
しかし、アレクサンダは何も悪いことはしていないのです。
ただ「一つ 二つの パンくず」が欲しかっただけなのです。
作者レオニは、たくさんのねずみの作品を描いていますが、
それは彼がねずみに自身と同じものを感じたからでしょう。
彼はユダヤ人として世界を渡り歩き、人種差別の問題に直面してきました。
何の理由もなく、ただ存在を嫌がられて排除される経験は、姿を見られただけで追い出されるアレクサンダの姿に投影されているのではないでしょうか。
またレオニは
"特定の人物よりもネズミと自分を重ね合わせて考える方が子どもにとって簡単だ"
と考えていたことが、インタビューで明らかになっています。
「他人」よりも「動物」の方が自己投影しやすい、言われてみれば確かにそうかもしれませんね。
レオニは多くのねずみ作品を描きましたが、
当作品 と これまた有名なねずみ作品『フレデリック』とを比較すると、
『アレクサンダとぜんまいねずみ』では主人公が友との出会いによって影響され変化していく姿が描かれているのに対し、『フレデリック』では変わり者の主人公のユニークなリーダーシップが描かれています。
このことから、レオニのねずみ作品はそれぞれ違うねずみの全く別の物語であり、ねずみを介する話のつながりはないことが分かります。
2. 生き物とおもちゃの関係
<絵での対比>
「生きている」ことを表すのに、レオニは柔らかさを感じる手ちぎりの紙を使用しています。対照的にウィリーは最後のページ以外ではシャープに型どられています。
<ストーリーでの対比>
生きていて自由があるが愛されないアレクサンダと、
自由はないが愛されているウィリー。
ウィリーが自分はアニーのお気に入りのおもちゃであり、
「みんな ちやほやしてくれる」と話してから、アレクサンダはウィリーを羨ましく思うようになります。
そこから物語はふたりが友情を築き、アレクサンダが暗闇でひとり落ち込む場面へと移ります。この場面でアレクサンダはゴミの中(ゴミすらもアートですね✨)にいますが、そこには1ページ目で割れた食器が描かれています。まさに「リアリズム」を感じますね。
アレクサンダの落胆とウィリーへの憧れにスポットが当たっていますが、
アレクサンダと同じタイミングで、ウィリーもアレクサンダへ憧れ始めています。
ウィリーはアレクサンダにパンくずを探しにいこうと誘われた時、
「ぼく だめなんだ」と言ったあと、「でも いいさ」と言います。
ウィリーはこれらをパンくずを探しにいけないことに対してだけではなく、
同時に自分で動くことができない現状を突きつけられ無力さや虚無感、悔しさを感じる自分に言いかけているのでしょう。
(原作では"Oh, I can't"と書かれているので、原作の時点で「ぼく だめなんだ」程の自己否定感があったかどうかは不確かですが、少なくとも私は、この訳が最も適切にウィリーの感情を表現できているではないかと感じています。)
裏返すと、愛されているという事実なしでは許容できるような現状ではないということを意味していることが分かります。
そして憧れはどんどん強くなっていきます。
アレクサンダが
「ほうきや そらとぶ おさらや ねずみとりの ぼうけん」
の話をするのに対し、
ウィリーは
ペンギンやぬいぐるみのくま、そして「おもに」アニーの話 をします。
アレクサンダは能動的に動かないと見ることのできない広い世界を知っています。
ウィリーはアニーが好きだから「おもに」アニーの話をするのではなく、アニーのまわりの世界しか知らないから、その話しかできないのです。
アレクサンダとウィリーは互いに羨みあっていますが、
そこから「隣の芝生は青い」や「物事には必ず両面がある」という安易な結論では終われません。
なぜなら、お互いの憧れの大きさを比較した時、より切実なのはウィリーの抱く憧れの方だからです。これがなんとも痛々しい。
自分の意志で動くことはできないし、ねじを巻いてもらった時ですら「ぐるぐる」と走ることしかできません。
自由がなくとも愛されているから良いと言い張りますが、そもそも愛されていることすらあやうい。
アレクサンダとの出会いの場面で、ウィリーは「きいきい」音を立てていました。自分で動くことのできないウィリーが音を立てることは不可能であることから、
アニーがねじを回したままどこかへ行ってしまったことが推測できます。
「寝るときも一緒」なほど気に入られていると言っても、
アニーの心に常にウィリーがいるわけではなく、
ウィリーが愛されているのはアニーに遊ばれている時に限られているのです。
孤独の時間もそれなりにあるし、子どものおもちゃに対する関心には限界がある。
実際物語の後半でアニーは誕生日プレゼントにもらった新しいおもちゃに目移りし、結果ウィリーを捨てています。
「かわいがられる」という時点で、対等な関係にはなく、それは愛されているのとは違います。
ここから、問題となるのは
「愛される不自由と嫌われる自由のどちらが良いか, which is better?」
ではなく、
そもそも すべての前提に自由が必要だ というメッセージが伝わってきます。
それを分かった上で、アレクサンダはねずみのままでいることを覚悟しているのです。このストーリーは、自由に生きれることがいかに幸せかを教えてくれます。
3. 出会いと友情
自由に加え、友情もまた大きなテーマです。
ふたりの会話は「きみ だれ?」という問いから始まります。
この問いはアレクサンダが本物のねずみになったウィリーと再開する場面でも用いられていて、
読者に出会いを思い出させ感動へ導くという構成としての役割を果たしています。
また、繰り返すことで「きみ だれ?」という問い単体での重要さを強調する役割も果たしています。
"Who are you?" の問いに答えられるようになるためには、
「自分が何者であるか」を知っている必要があります。
この問い、難しいですよね。全人類に共通する課題とも言える気がします。
(ここで私は『星の王子さま』を思い出しました😂)
レオニの作品には自分探しをテーマにしたものが多いです。
レオニ自身が様々な国で生活し、「自分とは何者か」を模索し続けていたからでしょう。
若くして政治活動にかかわり、芸術家の社会的な役割を意識し、
葛藤と長い年月を経てやっと自分の使命・天職を見つけられたレオニ。
この物語では、友との出会いが自己認識のきっかけとなります。
アレクサンダとウィリーの友情が深まれば深まるほど、自分を語る必要性は増し、自分と向き合う時間や自分と相手の環境を比較することが増えていくのです。
人それぞれ、アレクサンダやウィリーのように、「Who are you?」について
深く考える時が来るのでしょうね。
アレクサンダが友を思いやり、自分の願いをウィリーのために使うとき、
そこに真の友情が芽生えます。
中には、
「自分が友達を失いひとりになりたくないから」又は「自分がぜんまいねずみになることの無意味さに気づいたから」
といった動機でアレクサンダはウィリーをねずみに変えた、と解釈する方もいるそうです。
しかし、自己中心的な気持ちでウィリーをねずみに変えたのだとしたら、
「ぼくは.....」と言いかけて止め、あえてウィリーを主語にする描写や
「きみ、だれ?」と「こわごわ」言う描写は必要ないのかな?と思います。
また、アレクサンダはこれまでひどい仕打ちに遭ってきたからこそ、
他人の痛みに気づくことができ、ウィリーの「かなしい はなし」に深く同情できたのではないかな、と考えました。
アレクサンダの小石探しの必死さや、
「ふるえごえ」で噂の真偽を確かめたことから、願いの強さが感じられます。
「むねを どきどきさせ」とかげのもとへ走ったときも、
「やっと(ぜんまいねずみになるための)小石を見つけた、、!!😭✨」
という気持ちだったのでしょう。
にもかかわらず、
「かわいそうな ウィリー」を思い出し、 友を哀れみ、
「ぼくは.....」と言いかけ止めた。それほどウィリーを大切に思っていたんですね。
「思いやり」というと、
アレクサンダの思いやりに目が行きがちですが、
とかげの話をする時、ウィリーは本物のねずみになりたいと願っていただろうに、アレクサンダの希望を尊重し、あえて自分の願いを表明しませんでした。
見栄は張りたいし、アレクサンダの夢も壊したくなかった。
恥や遠慮とも言えますが、私はこれがウィリーの「思いやり」なんじゃないかなと思いました。
だから、直接、とかげがきみをぜんまいねずみに変えられるかもしれない、
と言うのではなく、
「いきものを ほかの いきものに かえることの できる、まほうの とかげが すんでるそうだよ。」
と言ったのでしょう。
そして、自分が捨てられてしまった時ついに、愛され自慢や見栄っ張りを忘れ、
全てを正直に話します。真の友情には、このウィリーの変化も重要でした。
願いが叶えられても、ねずみが嫌われ者という事実は変わりません。
しかし、ピンチを共に乗り越えた親友がいれば、
困難な生活も、生きる喜びを分かち合う大切な日々に感じられるだろう
と感じました。
ここまで読んでいただきありがとうございます!!
以上、「本編(前半)」でした! 今回はここまでとします😄
次回は、
本編の続き「トカゲの役割」と、
「当作品が児童文学として如何に優れているか」について考え、論じていきます。
お楽しみに💓