【命に感謝していただく】生きることは命を奪うこと。「いただきます」は命をくれた相手への言葉。
生きるとは命を奪うこと、と前回の本欄で書いた。肉でも魚でも野菜でも、生きたものから命を奪うから私たちは生きていけるのである。しかし現代の「食べる」という行為にはそういう意識が決定的に欠如していると思う。魚の切り身やブロッコリー、ミョウガ、オクラなど、海や畑でどんな姿だったのかを知らない子どもは少なくない。いや、大人ですらそうだ。食べ物とは食卓にポンと出てくるもののように勘違いしてしまう。動物や植物がどんな風に育ったのかを知ることも、命を失う瞬間を知ることもなく、目に見えるのはパック詰めされて売り場に並ぶ姿だけだ。
生産者と消費者の間が絶望的なほど離れすぎているのである。自分で野菜やコメを育てている人は、当然作物の素性を知っている。どんな土や水や肥料で、どんな環境で育ったのかをすべて知っているから、形が悪かろうが少々虫が食っていようが実りをありがたく感じる。自分が汗水たらして育てた野菜やコメをまずいと思う人はいない。「ああおいしい!」という言葉が自然に出てくる。
野菜やコメを育てるところまではやらなくても、せめて育てた人の姿や苦労を思いながらいただきたい。そして私たちが生きるために奪った命に感謝しながらいただきたい。お百姓さんが丹精込めて野菜やコメを育てるように、できるだけ自分で丁寧に手間ひまかけて料理したい。手を抜かずに料理すれば、しっかり味わいたくなる。命に感謝すればその思いはさらに強くなる。
「いただきます」「ごちそうさま」という言葉は誰に対するものだろうか。お百姓さん? 料理してくれた人? もちろんそれもある。しかし何よりも私たちがいただく命に対する言葉だと私は思う。
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