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Japanese Judges

ガラス張りの部屋で

浅暗い"塀の中"から出てきた私にとっては、それはそれは明るく、まぶしい部屋だった。
いつもの地裁の窓がない部屋とは異なり、本来は和解室として使うのであろう、東側のガラス張りの一室。まるで、アメリカの法廷ドラマ『SUITS』の世界のようだった。

それまで弁護士任せにしてきた「裁判」の期日に、私は出頭したのであった。被告による引き延ばし戦術の結果か、既に2回も裁判官の異動があり顔ぶれが変わっていたが、須賀康太郎裁判長(50期)、倉田龍輔(新第62期)、岡田毅(新第65期)の3裁判官の表情からは、ある種の清々しい感情すら読み取れた。

「——もう、充分な議論がなされたでしょう。」

判決の時が近づいているのであった。

この事件は、もともと松川春佳裁判官(60期)の単独体の事件であった。弁護士を依頼した直後の期日、「本件は本人訴訟で始まったので、弁護士として主張を整理するべくもうひと期日を……」と言われたときは原告としてショックだったが。今、当時の訴状を振り返ると、そう言われても仕方がないと思わされる。
しかし松川判事は精力的に審理を進め、裁判所から「争点一覧整理表」を提示することすらした。ところが、ここで合議体への変更と異動が入り、事件はストップしてしまった。この間の裁判体については、何度か見に来ていたはずだが、すこぶる印象が薄い。
そして、しばらく裁判に興味を失い、弁護士任せにしていたが、原告の仲間の高木さんから「裁判所を見に来た方がいい、すごい」と誘われて、未だカビの匂いが残る服をおもむろに着込むと、電車に飛び乗ったのである。

東京地裁の裏側、20メートル強の駐車場を挟んで弁護士会館に隣接する窓ガラス張りの部屋では、実際に「正義」が行われようとしていた。
裁判長、裁判官が自由な”心証”を既に固めていたことは誰の目からも明らかだったのではないか。誰が担当するか分からない裁判官の配点は「裁判官ガチャ」ともいわれるが、この日、私は「当たりくじ」を引いたことを自覚したのであった。

雄大、公正なエース集団たる東京地裁労働(11)部の栄光ある勝訴判決にあやかれる日が、今や来ていたのである。この日、裁判長は、被告側が申請した明らかに不必要な——「事件」の後にユニオンに加入した——者の証人申請を却下すると、私たち原告側にも、尋問時間は40分でこれを遵守してほしいと告げ、光に包まれた法廷を”閉廷”した。

証言台にて

証言台に立たされるのは2回目だった。2件とも、ユニオン関係の裁判だった。
私は、5年も前のことで記憶も衰退しているものの、ありのままのことを精一杯しゃべった。弁護士たちは、「要件事実」に夢中で、当時者である私ほど感情を傾けて尋問に臨んではいない。勝訴判決に必要な事実認定の前提となる証言を逆算し、それさえ取れれば後は関係ないという寸法だ。
尋問のおわりに、岡田毅判事から、
「被告ユニオンを追い出されたとしても、他のユニオンを結成して活動することまで妨げられるものではない。裁判で争うよりも、そうして自分の好きな活動をするという選択肢はなかったのか」
と問われた。
私は、
「私たちは、アルバイトといった立場とはいえ、プレカリアートユニオンの名義できわめて精力的に、ユニオンの名前を背負って、活動してきたのです。それを、不条理な手段で追い出されるということは、納得できません。」
と答えた覚えがある。

実際に、被告ユニオンの自称”代表者”(この裁判では、誰が代表者かが争点になっている)は、証言台で、あることないことを始終述べ続けた。ひきょうだと私は思った。
特に、私に命令してコミュニティーオーガナイジングのセミナーに出席させておきながら、それを
「自分から勝手に行って、その時間と重複するユニオンの総会に出席する権利を放棄した」
という主張には怒りを覚えた。子どもの頃からの特性で、私は講義や授業、セミナーの類いが死ぬほど苦手だ。自分から希望して行くはずがない。業務命令で、給料も出すと言われたから行ったのだ。
”被告”側は、法廷に立つことには慣れたもののようだった。しかし、「要件事実」を一通り揃えたようで弁護団も余裕の表情だった。私だけが、被告側の悪質性が裁判所に伝わっていないと感じて焦り、裁判長の許可を得て3件だけ質問をさせてもらった。

「原告の私たちは地域ブロックという支部に在籍していて、その支部ごとに代議員の選挙が開かれていたのですよね」
「そうです」
「それでは、平成30年9月当時の地域ブロック支部の支部長はズバリ誰だったのですか」
「……その時は、地域ブロック支部の支部長はいませんでした。」

後から、良く考えると重要な内容だったと少しだけ補助参加人の大石眞人弁護士が褒めてくれたが、法廷での私の「活躍」はこれだけだった。
裁判長たちは、「判決以外の解決は不可能ということでいいですね。」と述べると、和解を勧めることもせず、判決期日を指定した。翌年の2月28日だった。

判決前夜

判決前夜のある時、私は”別件”で、東京地裁13階—「労働部」に現れた。

何を隠そう、”非弁活動”のために来たのである。つまり、弁護士にも司法書士にも依頼を断られた組合員の解雇無効確認と未払賃金請求の労働審判申立書を本人と一緒に持って来たのだ。
許可代理も申し立てたが、案の定却下だった。
裁判所とは、底知れない調査力を持つ組織で、単に名前が同じだからという手がかりから私を突き止め、プレカリアートユニオンの事件を起こしている原告の宮城であると特定すると、却下になりましたから、と予納した切手を別件の法廷に持って来すらしたのである。

そうして、良い予感はしないまま迎えた労働審判の期日だったが、裁判官は「解雇について争いがあることは認めるとしても、未払残業代は100%原告の請求通りになる。本当にそれでいいのか。」と会社側に迫り、強力に和解を勧試した。
そして、組合員が会社側と顔を合わせたくないというので、廊下で一緒に待機していると、裁判官がそこに現れたのである。
まじまじと見つめてくるので、

「許可代理を却下された者です。報酬は得ていないので大目に見てください。」
と述べると、裁判官は、

「ああ、報酬……しかし、そんなことより、別件で、私と会ったことがあるんじゃないですか。」
と笑うと、マスクをずらしてみせた。

そう、彼こそは、栄えあるJapanese Judgesの右陪席、岡田毅裁判官だったのである。この時の岡田判事の笑顔を、私は忘れることができないでいる。

判決

運命の判決期日。私は、”赤い封筒”を見ただけで、中身が分かった。なぜならば、ダメな内容だったら、普通郵便で送ってきていたことだろうから。

正義がなされたのだ。

"塀の中"で、私は判決を少なくとも20回は読み返した。
判決は、先進的でシンプルな内容だった。あれほど期日が重ねられたのに、こんなに薄いとは。
泥縄式の各論・補論に逸れることなく、

「労働組合においては、その規約に役員が組合員の直接無記名投票により選 挙されること又は直接無記名投票により選挙された代議員の直接無記名投 票により選挙されることを定める規約を含むことが必要とされており(労働組合法5条2項5号)、代議員が直接無記名投票により選出されることは、組合民主主義の確保のため重要なものと解される。
 本件のような選任手続によって選任された代議員による決議は組合員の多数の意思を反映したものということはできず、上記に照らし、その瑕疵は重大であり、もはや法的に総会決議と評価することはできず不存在というべきである」

と一刀両断した。
当初、シャキシャキと単独体で事件を裁こうとしていた松川判事が蘇ったかのような単刀直入な議論だった。今は総務省に出向されているそうだが、本件判決をもし知ったら喜ばれるだろう。

私が、総会(大会)への参加権を勝手に放棄したといった被告側の主張についても、

「そのため、原告は、代議員に立候補する意思があったにもかかわらずその機会がなく立候補できなかったこと、他方で、高木は、代議員に立候補していないにもかかわらず被告から説明もなく案内書及び代議員証の郵送を受けたことから代議員として本件第1次総会に出席したことが認められる。」

と正しい認定がなされた。
”裁判慣れ”した被告の卑劣な虚偽の弁解は完全に無視された形だ。ウソをウソとして映し出し、排斥する真実の八咫の鏡。これでこそ裁判所だ。

こうして、足かけ5年間をかけた一世一代の私の裁判は完全勝訴判決に終わり、11月の控訴審でも同様の結論が維持された。”ブラックユニオン”と関わったことの”責任”をようやく果たすことができたのである。

ひとは、誰と関わり、どのような人生を歩むかを選ぶことができる一方で、その責任は全て負わなければならない。親子関係や交通事故の加害者被害者の関係などの例外を除けば、ほぼ全てのことに当てはまる教訓だ。
いや、親子関係や交通事故等の関係でさえも、結婚する時点で子どもを持つ可能性はあったとか、ハンドルを握った時点で交通事故が起こる可能性があったといかいうことはできるだろう。

しかし、完全に信用できる完璧な労働条件の会社が見つかるまで就職しない、異性としても魅力的で欠点がない生活の相性もぴったりなパートナーが見つかるまで結婚しない、というような判断をすることも現実的ではない。
そんなことをすれば、どこにも就職せず、家族を持つこともなく、人生の夕暮れをただ迎えることになるだろう。
かくして、ひとは責任と必然の間にサンドイッチのレタスみたいに挟まれて、最後まで懊悩せざるを得ないのである。

私が20代の時間の多くをこの件に費やさなければならなかったのも、自らの宿命であり、運命であったといえよう。
その中で、黄色と黒は勇気のしるしの"Japanese Businessman"ならぬ、名誉ある"Japanese Judges"たちに出会えたことは、私の一生の栄光である。


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