強迫性障害とその克服について(2)
強迫性障害とその克服について(1)で書いたとおり、高校3年生のときに強迫性障害を発症し、27歳のときまでかなり苦しんできました。
特に、地面や床に落ちているゴミ、カベや天井の染み、忘れ物をしているのではないかというこの3つの強迫観念はなかなか消えることなく、また日常生活でどうしても沸いてくるので、しつこく僕を苦しめました。
また、強迫性障害の苦しみにより、色々と諦めたこともありました。性格も多少変わってしまっていたとも思います。
そんな僕がどのように対応をしたか、家族はどのようにサポートしてくれたか、当時高校生で初めて心療内科に通って、その後なんとか大学生になったあたりの、どのように生活していたかを今回は書き綴りたいと思います。
自分の対応について
強迫性障害になって、ゴミやシミを確認する日々を過ごし、自分はただただ「これはおかしい」と思いながらも、なんとか恐怖と不安をやり過ごそうと頭をこねくり回し、確認回数を少なく出来るよう苦労していました。これは強迫性障害になったことがある方ならよくわかると思います。
授業中、色々な確認しなければ恐怖と不安に耐えられないというときは、教師に「すいません、トイレ行ってきます」と言ってトイレに逃げ込んだり、保健室に逃げたりしていました。
そういうことが頻繁にあったので教師からは「この高校は君のような学生がいるところではない」などと言われたこともありましたが、教師が何を言おうが、それどころではありません。恐怖と不安と、その緊張による肩こり、頭痛で苦しくて苦しくてたまりませんでした。
しかし、どこか心の中で「でも、なんとかなるだろう」と思っている自分もいて、「自分はこれくらいの苦しみ大丈夫」と自分を誤魔化している側面もありました。
親の対応について
母に相談したところ、「気にするんでない」という助言が母の初期の対応でした。
当時、母は僕のこんな相談に対して「自分の子供が精神病みたいなのになるはずがない」と考えて、受け入れられなかったそうです。いや、今となっても受け入れてはいないでしょう。
その後、ますます症状はひどくなっていくばかりだったので、「自分一人では無理なので、助けてほしい」と頭を下げるも、「あまりお前に関わっていられない」と返答されました笑
「自分で何とかするしかない。」と強く思ったことを覚えています。
※メンタルクリニックで強迫性障害と診断されたあと、強迫性障害に関する本を仕事帰りに買ってきてくれたことがあって、そのときはとても安堵したのを覚えています。
しかし、それ以外は基本的にあまりケアしてくれませんでした。当時、高校の担任などと何か話はしていたのかもしれませんが、わかりません。
保健室の養護教諭に相談し、メンタルクリニックへ
僕の状況を養護教諭に相談すると、すぐにメンタルクリニックの予約をとってくれました(その日の内に受信することができたので、学校と何らかのパイプがあったのかな?)。
とりあえず、勧められたとおりにメンタルクリニックを受診。状況を医師に説明すると「君の言っていることは妄想です。それは強迫性障害ですね。ひとまずの薬を出しておきますね」の一言。
「妄想ですとか何言ってたんだ、コイツ。そんなことはわかってんだよ、ボケが」と心のなかでかなり腹を立てたことを覚えています。
その後、数回通いましたが、薬とやらは効果が現れるのに最低でも2周間以上かかるとかなんとかマニュアル的な説明を受けて、だんだん嫌になってきたので通うのはすぐにやめました。
大学受験を諦める
強迫性障害の症状に振り回され、気づけば12月になっていました。進学校であったぼくの高校はセンター試験に向けて大詰めといったところです。仲の良かった友人たちもカリカリし始める人も増えてきました。当時はどこの大学を受けるとかどころではなくて、模試を受け切ることもできず、「毎晩こんなくだらないことを確認するためにオレは生きているのではない」と心のなかで思いながらも、結局夜寝付くまでゴミやシミのことが頭から離れませんでした。
なんとか学校には通っていましたが、ただ通ってほとんどゴミやシミとかほかの強迫観念に対処しているだけでした。
冬休みになり、学校に行かなくて良いので少しゆっくりできました。不思議と家の中のホコリやシミにはあまり強迫観念が現れないのです。
それなりに大変だった様子を見ていた母は僕におもむろに言いました。「アンタ、受験どうする?」
僕は少し考えて「無理だね、諦めるわ」と伝えました。一応センター試験の申込みはしてあったので、センター試験会場には行きました。ゴミとホコリとカベのシミが気になって「こんなに気にしていたら、カンニングしていると判断され失格になるかも」とか思いながら2日間が終わりました。
高校卒業してアルバイトを始める
受験を諦めると、強迫性障害の症状は少し弱まっていたように思います。
高校の卒業式、「ゴミやシミに振り回され続けていたけど、自分は何を卒業したのだろうか」とか考えながら卒業式を出席していました。
卒業式から帰ってくると、母が「アンタ進学もしないんだから働きなさい」と言ってきました。
「おお、そうか働いてみよう」と思い、求人情報誌をすぐに買ってきて、ケンタッキーフライドチキンと近所にあった居酒屋チェーン店に電話して履歴書を書いて面接に行きました。
2つとも採用にはなったのですが、長く働けそうな居酒屋で働くことに決めました。
居酒屋には同年代のアルバイターや高校生もいて、かなり楽しそうな雰囲気で、実際楽しかったです。
僕の強迫観念のゴミやホコリが気になるも、不思議と弱まり、どうしても気になる時はそのゴミを拾い、トイレなどに駆け込んでいました。明らかにトレイに行く回数は多かったと思いますが、働きが良かったのか咎められたことはありませんでした。
その傍ら大学に行こうかと思っていた(あまりよく考えていなかった)ので、自宅のテレビCSで代ゼミの講座を受けながら勉強しようかと思っていましたが、勉強しようと机に座ると自宅でもゴミやホコリが気になり全然勉強にはなりませんでした。
強迫性障害を治すことに集中しようとアルバイトを辞めると、なぜか強迫観念は悪化していきました。その年も大学を受けられず、自宅にいると良くないと思い、都市に出て学生会館(予備校には通っていないけど)で暮らしていると強迫観念が随分と良くなりました。
大学受験をして大学に入学する
それほど勉強に集中はできていなく、ただ学生会館で暮らしていただけだったのですが、センター試験をなんとか受けれるような感じはしていたのでセンター試験を申し込みセンター試験を受けました。
まあ、高校時代も大して勉強していなく、卒業してからも大して勉強できていなかったので、センター試験結果は7割に満たず、地方国立大学の受かりそうなところを受験し合格するに至ります。予約しなくても通える心療内科を見つけ、そこに通い抗うつ剤を処方してもらっていました。
大学でも相変わらずゴミやカベの染み、忘れ物を気にするのは収まらなかったのですが、なんとかやってました。
大学に入れば、誰かかれかと酒を飲む機会も作りやすかったので、しょっちゅう宅飲みをして辛さを誤魔化していました。
アルバイトも再び始めました。ホテルでのベルボーイの夜勤のアルバイトです。ホテルのベルボーイは接客は多いものの、デスクワークも少なく、また夜勤で気を張ることも少なかったので、僕にとっては非常に楽でした。
このホテルのアルバイトと、友人との酒が中心の生活になりました。大学の先輩の家に住み着いたり、同級生の家に住み着いたりしていると、一人でいるときより強迫観念も不思議と弱まっていたので、「これは良い傾向だと思っていました。」
抗うつ剤をやめることになる
なんとか強迫観念を誤魔化し誤魔化しやっていき、大学3年生になった頃飲み会やアルバイトでかかりつけの心療内科に通えず、3日間ほど抗うつ剤(SSRI)を切らしてしまっていました。その時飲んでいたのはパキシル10mgを1日1錠しか飲んでいませんでした。主治医が薬を増やしたがらなかったからです。以下のように強迫性障害には通常40mg飲むと書かれており、同じ量を飲んでいないので何度か医師にこの説明どおりに処方して欲しいと伝えていたのですが、「大丈夫だよ」とかなんかごまかされていました。
※参照:パキシル
https://www.rad-ar.or.jp/siori/kekka_plain.cgi?n=12809#:~:text=%E5%BC%B7%E8%BF%AB%E6%80%A7%E9%9A%9C%E5%AE%B3%EF%BC%9A%E9%80%9A%E5%B8%B8%E3%80%81%E6%88%90%E4%BA%BA,%E3%81%A7%E9%81%A9%E5%AE%9C%E5%A2%97%E6%B8%9B%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82
しかしその薬が3日間切れることになりました。1日切らしたことは何度もあったのですが、2日間以上というのはあまりなかったのです。薬を切らして3日目、頭がびりびりするような感じがして吐き気がしました。しかし、酒を飲んでやり過ごしました。
4日目、やっと受診できることとなったのですが、診察を受けると「薬をやめれたから良かったね。やめれたんだから、また飲む必要ないと思うよ」と言われ「診療内科を卒業?」することになりました。
それ以後は、不安感、強迫観念の悪化などもありましたが、半年くらい我慢しているとその状態にも慣れていきました。
こんな感じで強迫性障害は自宅にいようとするとか、受験勉強しようとかすると強まるなど特徴があったように思います。
大学生になり、まだ強迫性障害を克服とまでは行きませんが、強迫観念もどうしようもなく強くて大学に行けないということもなく、色々と試したことも功を奏したのかなんとかギリギリ日常を保てていました。高校生で発症してから大学生として過ごす間の期間の強迫性障害のために行っていたことを以下に書き記したいと思います。
高校生の発症以後対応したことについて
・高校3年生の大学受験を諦めたとき、思いつきですが「3日間一切何も考えない」を実践したことがあります。楽しいことも必要なことも、とにかく全部考えないを実践しました。強迫観念は楽しいことや考える必要なことにも忍び寄ってきて侵食してくるからです。
3日間とにかく考えるのをやめると、強迫観念は明らかに弱まっていました。そのときは克服できる兆しを感じていたものでしたが、それ以降は強迫行為に負け続けました。また、考えないを実践すれば良くなるのではないか、という考えはあるものの、やりきれずに中途半端ながらも実行できる時はやっていました。
・強迫性障害や不安神経症、精神科の薬に関する本を何冊か買って何度か読み通しました。また、強迫性障害を克服した人の本などを数冊読んでいました。読むたびに、自分は本気で治そうとしていないなと歯がゆい思いをしていました。
それらの本を読んだ中でよく実行していたのは、自律訓練法です。自律訓練法は1932年にドイツの精神医学者J・H・シュルツ教授が始めたもので、第一公式の自分の両腕・両脚を重く感じるように暗示をかけていく段階と第二公式の両腕両脚を温かく感じ、第三で心臓が静かに鼓動、第四で自然に楽に呼吸している、第五でお腹が温かく、第六でおでこが涼しいと感じれるように自分で暗示をする療法です。これを気が向いたらやるようにはしていました。
・腹式での深呼吸もかなり取り入れていました。僕はスポーツをやっていたので、スポーツの緊張を和らげるべく高校のバレーボール部時代から取り入れいたことです。複式で深呼吸を数分間繰り返すと、不安や恐怖は少しながらも減退してくれます。
・認知行動療法を彼女と一緒にやるということも時々していました。付き合っていた人の内2人くらいが認知行動療法を手伝ってくれていました。ゴミやホコリなど強迫観念、他にも強迫観念が出てきたらどうするかと想定を繰り返していました。やっているときは結構恐怖や不安に襲われるのですが、気が向いた時にやっていました。また、大学には大学カウンセラー(臨床心理士)がいたので毎週通って、時々認知行動療法をやってもらっていました。
・お風呂と運動もなるべく心がけていたことです。
僕は本当はスポーツで生計を立てたいという希望があったのもあって、様々なスポーツの練習をしたかったので、大学時代バレーボールサークルやバスケットボールサークル、基礎スキー部に入っていて、そこで毎週走り込みやバレーボールやバスケットボールのゲームをやっていました。ゴミやホコリが気になっても、プレイや走ることに集中して、運動の成果を出すというよりかは運動に集中することが目標でした。もちろん集中できな自分を責めていたりもしましたが、とにかく強迫観念に負けないことが目標でした。
強迫観念や強迫行為が弱まる時
・僕の場合はSSRI(抗うつ剤の一種)であるパキシル10mgを毎日1錠(本来は1日40mgが必要量)を飲んでいたら、思い込みの可能性もあるかもしれませんが、若干強迫観念の不安や恐怖は弱まっていました。もちろん全然困るほどには強いのですが。
・あとは、風邪を引き高熱を出すと強迫観念が弱まって楽だと感じていました。
・これは生活パターンを形作ったものですが、アルコールに頼っていました。酔うと本当に強迫観念が弱まるのです。強迫行為をして周りに見られても恥ずかしくないという利点もありました。
・ランニングなどで酸欠状態になると、強迫観念は弱まることを発見していました。これはあるサッカー選手のちょっとしたネガティブな思考を止めるコツとして書かれていたのを真似たものでもあるのですが、脳を酸欠にするとネガティブな思考ですら出来なくなるのです。
走る以外にも、1分ほど息を止めるとかいうのも酸欠には出来ます。そのサッカー選手もプレイ中、どうしてもネガティブなイメージが離れない時は、走りながら息を止めるそうです。数秒で酸欠になってネガティブな思考は停止してくれます。
「脳に悪いのでは?」と思う方もいるかと思いますが、潜水や素潜りなどあっても、脳に明らかに悪いと言った情報は見つかりませんし、他のスポーツをしていても、肩で息するくらい心肺機能を追い込むなどいくらでもありますので、一瞬の思考を停止させるくらいの酸欠などは問題ないと僕は判断しています。
※心配な方は医療期間などにご相談ください。
次回は大学4年生になり、首や肩の凝りから強迫性障害との付き合い方も変わり、その後克服することになったところまでを書きたいと思います。