「果蔬」へ至る「舟」の曳波
丁亥の春、余と景和と浪華に赴く。
舟中見る所に随つて図を作る。
余は則ち短辞を題するも、皆章を成すに及ばず。
亦た一時の乗興なるのみ。(乗興舟奥書)
10月12日より始まった、嵐山福田美術館の「京都の嵐山に舞い降りた奇跡!!伊藤若冲の激レアな巻物が世界初公開されるってマジ?!(略称:若冲激レア展)」。
最大の目玉は、作品リストにも掲載なく長年知られることのなかった絹本着色絵巻「果蔬図巻」世界初公開。
しかしそれと同じ部屋に、やはり同じ人物たちの手になる巻物が展示されているのが「乗興舟」という画巻です。
舟で興に乗じる
どうですこのモノクロの美。たまらん。
浮世絵とはまた違う味わい。
「拓版画」といいます。
「拓版技法で摺った版本を数点遺して」いるうちの一つが乗興舟です。
水墨画は更に濃淡が繊細なので、よりグラデーションを勝手に感じますが、動植綵絵の後のこうした意欲的な取り組みも若冲の面白さです。
黒を地色とし、白とぼかしで線や面を表す。モノクロだけで、逆に色彩を感覚的に脳裏が感じ取る。そういう不思議な印象を与える作品です。
明和4年(1767年)春に行った、伏見から天満橋に至る大坂までの川下り。京の町絵師伊藤若冲が風景をスケッチし、それに相国寺塔頭の禅僧大典顕常が短い詩と奥書を添えました。
紙本拓版という、当時としてはやや珍しい表現形式は、その後も「玄圃瑤華」「素絢帖」などの画譜へと続いていきます。
そのどれもに短辞を寄せているのが大典禅師でした。
是の身は芭蕉の如し
3歳差の若冲と大典禅師(若冲が年上)の交流は30代の頃から始まったとされています(※)。
片や京を代表する青物問屋を商う傍ら、類い稀な絵の才能に恵まれた四代目。
片や漢詩を詠む風雅を愛しながら、歴史ある禅刹大本山で将来を嘱望された次代を担う僧侶。
信心深い在家の仏教徒と厳しい修行を重ねる禅僧は互いの力量に敬意を払い、人知れず抱える相手の悩みに親近感を覚え、励まし合いながら己の芸術に切磋琢磨していったのでしょう。
若冲は京都の諸寺院に伝わる古今様々な名画を模写し腕を磨いたと伝わるのも恐らく大典禅師の手引きによるものですし、かの動植綵絵以前に若冲は金閣寺(相国寺山外塔頭鹿苑寺)大書院50面に障壁画を描く仕事を成し遂げましたがここにも大典禅師が関わって来ます。当時の金閣寺七世住職は大典禅師の漢籍の弟子・龍門承猷でしたから、彼の晋山式に合わせてチャンスを与えたと考えることが出来るようです。
大典禅師の導きにより禅に深く帰依することで、若冲の画風もいよいよ冴え渡っていきました。彩色における神々しさと厳粛さ、その一方墨絵での素朴さと潔さは、若冲の御仏への篤い信仰がもたらしたものでしょう。
明和4年といえば若冲が動植綵絵を相国寺に寄進したしばらく後。その頃大典禅師は念願のフリー活動を始めていました(相国寺に致仕の嘆願書を突きつけて組織の中で働くことを一切拒みお寺を飛び出します)。出奔生活(※)は13年に及びます。この舟旅は9年目の出来事。
やれやれ、お互い肩の荷が下りたなと破顔しながら舟遊びを楽しんだ様子が目に浮かぶようです。
それでも大典禅師は寺へ戻って5年後には113世住持(全国に末寺を抱える相国寺派のトップ)に就きますので、前代未聞の行動をどれほどとったとしても余人を以て代え難い人物だったんですね。
果蔬図巻に寄せる詩
さて、前項【世界初公開、伊藤若冲「果蔬図巻」】で触れた「果蔬図巻」にも大典禅師は言葉を寄せていました。作品の最後に入れる跋文という後記です。
前項で制作年代を「寛政庚戌=寛政2年(1790年)以前」と紹介していたのはこの辺が理由。絵巻の所有者だった故人の子息、森氏に依頼されて大典禅師がこの年の暮れに跋を書いたのは明らかですが、森氏の父へ若冲が絵を贈ったのはあくまで「それ以前」であり、明示はありません。今後の研究に期待しましょう。
さすがこの時代、いや近世における五山文学最高峰。美文すぎて意味が汲めません。そこで福田美術館さんが展示上部に掲示して下さっていた現代語訳を画像にしてご紹介。
私としては年次推定も気になりますが、最大の関心事は大典禅師が若冲の絵に呈した惜しみない賛辞です。
「題材の果物や野菜の形を極め、色を備えている」
「若冲の心も目も、ほとんど神のごとき才に至っている」
「ああ、若冲の技も、とうとうこの領域にまで到ったのか」
「その気勢は力にあふれて健やかで、風韻は生き生きと動いている」
どう見てもべた褒めです本当にありがとうございました。
春に新発見のニュースとともに跋文の筆者が紹介された時、私はこれを聞いて卒倒しそうでした。巷間通説とされていた、この頃の関係と全然違うではないかと。
大典禅師が跋をしたためた寛政2年を遡ること2年前の天明8年(1788年)、彼らの人生で恐らく最悪の出来事が1月に起こりました。
世に言う天明の大火です。
京都史上最大の火災で錦にあった若冲の実家、アトリエは全て焼失し、裕福だった彼の生活や画業に決定的な影響を及ぼしました。大典の相国寺も3分の2を被災します(自坊慈雲庵も焼け落ちました)。
居宅を追われた若冲は大坂の知識人木村兼葭堂たちの庇護を受けて大坂や伏見の寺を転々とします。石仏建立を構想し出していた深草の石峰寺へ身を寄せ、そこを終の棲家としました。
実は若冲は後年、精魂傾けた動植綵絵の奉納先・相国寺に託していた永代供養を解除しており、それ以降は石峰寺が属する黄檗宗の寺とのつき合いを深めています。
ですから若冲研究では、天明の大火後の若冲は大典禅師と袂を分かった(またはそれに近い形で縁を切った)…とされることが殆どでした。
でも全然そんなことないね。お互いいつまでも評価してるよね。
絵が先に出来ており、跋文はその後。
それぞれ別々の場所で制作されたものです。乗興舟や玄圃瑤華レベルにお互いの意見入れながらコラボ制作した作品ではありません。
大典禅師はこの頃、相国寺の住持として天明の大火から焼き尽くされた寺の復興を目指し陣頭指揮を執り忙しい日々を送っていました。
そんな中、森氏が「父のために恐れながら若冲先生の絵巻に跋を頂戴できませんか」と会いに行ったり(と実際に書いてある)、庇護者たちの援助を受けながら描き上げた絵を改めて若冲へ「漸く表装させて頂けます、つきましては大典長老様に文を戴きに上がります」とご挨拶に赴くことは絶対あった筈。
いやあったとしか思えない(圧)。
そして相手の状況をそれぞれ弁えていたでしょう。
限界オタクの限界思考
これまで一般的には「相国寺での永代供養を取りやめてもらった」のは「毎年納める費用の工面が財力的に困難」になったから、その原因は「天明の大火によって」とされて来ました。
しかしちょっと待って?となる訳です。
だって永代供養解除、寛政3年10月のことです。
こんな絵巻物が完成した翌年よ。
普通できないでしょ?
あり得ないよ。
でも事実はある。
なら理由が違うに違いない。
ここで出てくるのが前項で紹介した若冲の町年寄としての活躍=「50代後半、錦市場の営業停止処分を受けてその再開のために先頭に立って粘り強く交渉した」行動。これと無関係でないのでは?というお話も囁かれています。
以前若冲実家菩提寺宝蔵寺で行われた太田梨紗子氏の講演を聴講しましたが、かなり後ろ暗い駆け引きを強いられ、それを打ち破るためあらゆるつてを辿り人脈を駆使して有力者へ働きかけた。そして最終的に再び商いが行える算段が立ち錦を守った。それらの行動の全責任をとり、表舞台から身を引いたのではないだろうか、という推測でした。
あり得る。
というかこれが一番相応しい。
だってお金に困ったから信心を捧げた寺と人物から離れるとか、窮乏によって墓を建てた檀家の回向を行わなくなったとか、どうしても彼らの人物像を突きつめれば突きつめるほど、強烈な違和感を覚えていました(限界オタクなので)。
でもこれなら。お互いに大きな影響が及ばないよう配慮したのなら。御仏の加護あれかしと互いに祈り続けてもなお距離を置いたのなら。
あり得る。
というかこれが一番相応しい。(大事なことなので二回)
更に言えば若冲のパブリックイメージ「勉強嫌いで字が下手、三味線などの芸事も駄目。酒にも女にも全く興味がなく、人づき合いも苦手」とは全て大典禅師が「本人から聞かされた自己紹介をそのまま自著に書き若冲の生前墓撰文に反映させたもの」です。死後に書いたものではなく同時代なので、幾らでも訂正可能の筈ですが内容は周知の通り。
それほど若冲の謙遜は本人にとって大真面目なものだったのでは。
また大典禅師もそれを承知の上で書き記したのでは。
まさに彼があらゆる意味で「奇想の絵師伊藤若冲」のプロデューサーと言えます。だって大典禅師の残した文章によって、今の伊藤若冲のイメージは作られているんですからね。
だからこそ乗興舟から20年ほど経て、それぞれ境遇も一変し、若き日のように親しく会って語らう時間を許されなくなった頃、未だ表装されていない若冲の絵巻を整えるための跋文を依頼されて、大典禅師はかつてと変わらぬ称賛と心からのエールを送ったのではないでしょうか。
出来上がった巻子装を持ち主森氏から見せられ、今や尊い立場である盟友からの心尽くしの言葉に、若冲はどれほどか励まされたことでしょう。
丁亥(明和4年)の春、私と景和(=若冲のあざな)とは大坂に向かった。
彼は舟の中から見えたものを次々に絵に描いた。
私は短い詩句をその絵に付けたが、どれも一首の詩として完成するには至らなかった。
これもまた興に乗じてのことである。(乗興舟奥書現代語訳)
ふう、限界オタクなのでうっかり暑苦しい長文になってしまいました。もし読んでくださった方いらっしゃったら、お疲れ様でした。