あの神文字書きが、犯したいほど憎いんだ 第十三話「長瀬瑠美」
「なあ、長瀬。ーー」
飲み干したアイスコーヒーのグラスから顔を上げないまま、虚と言っても良いくらいに温度の感じられない声で
「もし、小説を書くのならどういう風に書く」
と、周野才斗は聞いた。
温度が感じられないのは声だけではなく、彼の顔色からして、今日は薄白く見えた。普段からして色素の薄い肌の男で、長瀬瑠美は講義で購読した文章に白磁のようなという比喩があったときに、大袈裟だと自分で苦笑しながらも才斗の艶やかな頬を思い浮かべたほどだが、しかし、その白さは健康的な輝きであった筈で、今見える色とは大きく異なった。
「どういう風にというのは」
「どういうものを書きたいか、それをいかに書くか。ーー」
首を振って
「これじゃ、最初の質問と対して変わらないか。ともかく、曖昧に答えてくれて良いんだけど」
と、謝るように言った。
瑠美はほんの少しだけ考えたが、曖昧な答えで良いということなのだから、そう答えようではないか、と
「才斗くんと違って、私は小説なんて書こうとも思ったことがないから、想像でしかないけど、模倣になるだろうね。好きな作家の。『魔都』みたいに講談調で書くかもしれない。もしくは『細雪』みたいなのも良いな」
「そうなるよな」
才斗はここでようやく、グラスから視線を移したが、相変わらずどこを見ているか分からないままで、強いて言えばどこでもないところを見ようとしているようだった。
やはり今日の才斗の様子は妙だ、とこの学食に来る前の彼はどうだったろうかと記憶を辿ってみるが、講義の最中は妙な感じはなく、いかにも優等生らしい生真面目な授業態度だったように思う。だが、だからといって講義から学食に来るまでの間に何かが起こったというわけではないだろう。講義を受けている際も、その前も、彼の中でぐるぐると渦巻いていた何かしらの気持ちが今、ここになって爆発している、という印象を受けた。
「じゃあ、そうやって書いた小説は、その模倣先を超えるものになると思うか」
「なるわけないじゃん」
「それは何故」
「私がそもそも、十蘭や谷崎を超えられるわけがないんだけど、そういう理由は求めてないよね」
この問いかけに才斗が頷いたのを確かめてから、それから、彼が答えに「国文学科として同意だ」と普段らしい軽口を交えたのに少し安心してから
「模倣は模倣なんだから、どんなによくできていたとしても、同着でしょ。超えるの定義によるけど、超えたら、それはもう、別物なんじゃない。ちょっと哲学的な話になっちゃうけど」
と続けると才斗はますます深刻そうな表情になって「なるほど」と何度も首を縦に振った。
「でも、それは、比べる対象が久生十蘭や谷崎潤一郎といった、完成形だからじゃないか。たとえば。ーー」
ここで彼の深刻さは表情を通り越して、人相にまでたどり着いてしまったかのようだった。そんなはずはないだろうとは思うのだが、才斗がこう言った瞬間に、彼の目が落ち窪んでしまったかのように見えた。
「アマチュアの、未完成甚だしい作品を誰かが模倣した。その結果、それが模倣元が志していたはずの完成形に近いものだった。こういう場合はあるんじゃないか」
「そういうのは、確かに、あるかもね」
言いながら、瑠美は喉元にまで上がってきていた台詞をかろうじて呑み込んだ。その台詞が持つ危険性というものを、無意識ながらも察することができたからだった。
『そういう場合というのが、実際になにかあったのか』というのがその台詞だった。
○
学園祭が終わってから少しした頃にやったこのやりとりを瑠美が思い出したのは、後輩に合いに文化系サークルの部室棟を訪れ、そこで才斗が所属している文芸サークルの発行している同人誌〈未来埠頭〉の新刊が出ていることに気づいた時だった。彼らのサークルの部室の前の机に新刊の見本誌が置かれていた。
おやと思ったのは、才斗がこの同人誌を瑠美に渡してこなかったためだ。これまでは才斗は新刊が出るたびにすぐに瑠美にこの同人誌を渡してくれていており、それでてっきり、まだ新しいものはでていないのだと思っていたのだが、どうも変な話だ。見本誌の汚れ具合からして、できたばかりで、それで渡されていないだけというわけでもなさそうだ。
手に取って、開いてみて、目次に才斗の名前がないことを見て、自分の作品が載っていないから渡してこなかったのか、と疑問は解消した。解消したが、では、どうして最新号に才斗の作品がないのだ、と新しい疑問が湧く。
それに応じるように
「あっ、瑠美」
と部室の中から才斗が現れた。ちょうどいいと尋ねてみると
「特に理由はないよ」
といかにも誤魔化しでしかない回答が返ってきた。
「ーー私のせい」
もう数ヶ月前のことになるが〈未来埠頭〉に載っていた才斗の作品について、以前までと比べて文章が濁ってしまったと瑠美が批評をしたことがあった。あれにより、彼のやる気というものが削がれてしまったのではないか、と思ったのだが、才斗は首を振った。
「それは、関係ない」
彼は逃げるようにそれ以上は何も言わずに瑠美の前から立ち去っていったのだが、その背中を見た彼女の頭の中に、以前のアマチュア作品の模倣についての問答が蘇ったのだった。それは関係ないということは、他に関係のあることがあったはずで、その関係のあることというのが、実感がこもったように彼が話していたあのことなのではないか。何か、模倣をした、もしくはされたことで、嫌なことでもあったのではないか。
ここまで推察したが、しかし、瑠美にはここから先へ立ち入る勇気というのはどうにも出ないのであった。
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