レヴェナント 蘇りし者 ー生と死ー
「人間も動物なんだよな」、そう強制的に再認識させられた映画だった。
1823年、白人による迫害の時代を生き抜くアメリカのインディアン(ネイティブ・アメリカン)と白人の男たちの物語。仲間と毛皮交易のための毛皮を採掘中にクマに襲われ瀕死になったグラスは、仲間に見捨てられ更に息子まで殺され森に置き去りにされる。しかし、その復讐心と気力で彼は蘇り復讐を果たしにいくのだ。
家族と生と死
本作の主題は「家族」「生と死」だと思う。人間とはどんな生き物なのだろうか。自然の中で生きる人間を通していかに彼らが、動物的か、何が人間を人間たらしめているのかを描いている。
映画の冒頭、グラスが寝転び、そのままカメラはネイティブアメリカンの彼の妻と子供が横で寝ている場面を映す。初めて観るはずなのにこれが「家族」であり彼らの物語が始まるのだと予測させられる。取り残された主人公グラスは、動物の生肉を喰らい、毛皮で暖をとり、敵を殺す。まるで獣のような暮らしをしてまで生き続けようとする。復讐のためにそこまでするのだろうか。それだけではないと思う。自分自身以上に大切な家族は生きたくても死んでしまった。彼らを思うと生きることを諦めるという選択肢はなかったのだろう。
自然の描写も多い。水、火、草、空など人間の生活と根本的に結びついている自然を多様に描いている。またセリフも極端に少ない。「語り」という人間特有の道具ではなく、よりケモノ的な人間を表現したかったのだと思う。音響でもそうである。グラスのストーリーでのほとんどで換気扇の回る音を特段低くしたような重低音が流れ続けていた。この音からグラスの置かれていた環境、真冬の極寒の山、満足な食べ物もない、瀕死の怪我、息子が死んだショック、すべてを含む彼の精神状態から感じられる極限の「生」の風景を音を通して想像させられた。
この映画内で殺されていった人物には共通点がある。感情的になり自分勝手になった「動物」になった人間たちだ。序盤の戦争シーンでは我先にと逃げ出した者らが殺された。グラスの息子もグラスが殺されそうになる状況を発見し、感情的になり相手を考えずに行動に走り殺される。金とジョコ防衛のためグラスを裏切るフィッツジェラルドも結局ラストシーンで殺される。しかし、グラスはクマに襲われようが、うめられようが、敵に見つかろうが生き延びる。この対比が、「死」の残酷さと人間の人間らしさを表現している。他人を思うことを忘れた「動物」たちは「狩られる」のである。
生きることに執着した人間。しかし、そのために何をしてもいいわけではなく、人間としての道徳を保持しなくてはならない。グラスを置いていった若者は、その後出会う襲われた村の生き残りに食べ物をわたし生かせる。彼の行為は後々のグラスの生存につながる。動物としての人間を描きながらかつ、「道徳」があるからこそ人間として生きていくことができるという側面も示しているのである。
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