「どうでもいい」というマインドが私を大きく救ってくれたことをきっかけにこの名前での活動を決めました! (カウンセリングという言葉に親近感を持たせるための言葉が思い浮かばなかったという理由も少しあります笑) 【どうでもいい】 投げやりなようで、投げやりじゃない。 悩みとの距離をちょっと遠ざけるための魔法のことば。 そう私は感じています。 この言葉が腑に落ちたのは最近の出来事です。 どちらかというと、投げやりにこの言葉を使っていたと思います。 「もうめんどくさい、そんなのど
相手が放った言葉に グサっからのムキーッ!👹 ってことあると思う 人と関わっていればそういうこと たくさんあると思う 価値観が違うんだもの 生まれ育った環境も違うんだもの そもそも違うんだもの 相手の言葉や態度に傷ついた その時に悲しみや怒りの感情が ぶわーっとわいてきたとき その感情に身を任せて 相手に怒りをぶつけ返すのか はたまた自分は本当にダメな奴だと自分をいじめるのか 実はこれってすごい簡単でもある だけどどちらも後味は悪い なぜか。大切なことを忘れちゃっ
いつのまにか愛されるために 誰かを愛そうとしていないか? 好きになってもらうために 無理して自分を偽っていないか? そこに本当の自分は存在するのか? 誰かのために自分を偽ってしまう 誰かのために自分を傷つけてしまう 誰かのために自分を大きく見せてしまう 等身大の自分ではない自分で 誰かのためになろうとしてしまう 自分の心が犠牲になるような そんな関係性は離れよう 誰かのために自分を偽るのは 自分に対して偽るのと同じこと 無理した自分になんて ならなくていい 誰か
自分に対してどんな言葉をかけてるだろう? 自分に対してどんな風に接しているだろう? スパルタになりすぎてない?? 自分を否定するようなスパルタは しなくて大丈夫なんだよ 私の場合 昔はよく熱血スパルタモードに 突入してしまう時が多くて そんな時は自分のことも周りのことも 全く見えなくなっていたなと 今振り返れば思える 心の中に修造さんを同居させて よし!どんどんいこう!と ポジティブに舵を取り続けられれば いいのかもしれないけど そんな精神力と体力を 持ち合わせていな
できないからやらないんじゃなくて やってないからできないんじゃない? グサっ あいたたた〜 となるメッセージを つい最近受けとりまして 本当にそうだなと噛み締めているこの頃🦧 だけど、この やってみる!!に なかなか一歩を踏み出せない人って 多いんじゃないのかなと思ったり かくいう私がそういう 人間でしたからね🦧ええ。 何かをするって 不安や恐怖がつきもの 色々と考えては あーだったらどうしよう こーなったらどうしよう 不安が大きくなればなるほど 踏み出す一歩は遠の
何かあるたびに 私がいけなかったのかな… 私がこうできないから… 最低な人間だなぁぁ 最低な母親だなぁぁ 向いてないなぁ ほんとダメだなぁ まるで 息を吸うように自分を責めてしまう どんなことに対しても 自分に対して否定的になってしまう これは思い癖かもしれない そうやって思うことで 表面上で場がどうにかなったことがあったり 繊細さんは ちょっとの変化にも気づくから そんな時にアレ???と勘付いたことが 私何かしたかな に変換されてしまったり 私がいけないんだ だか
誰かの何かを気にしてる時 それは自分の大切な何かを 見落としてるときかもしれない 周りで起きる出来事は ただの現象にすぎなくて 何してもうまくいかないとかもそう 進みたいのに進めないもそう それが伝えたいことは 自分の内側を見てって 気づいて、立ち止まって わたしを見て! そんなメッセージかもしれない 周りばかりに目を向けてる自分に気づいたら 自分のことを見てあげれてなかった!と 気づいてあげよう😌 気づくことからで大丈夫 状況を変えようとしなくて大丈夫 私のことも
自分の心の声を大切にする その手っ取り早いひとつとして 【思いついたらやる!】 を実践してきて思うこと それは、 めっちゃ心の声さわいでる! だった(笑) さわいでるという表現でいいのかと迷うけど笑 もともと心の声を聞きすらしなかった 人間だったもんで🦧 「めっちゃ心、色々思ってるじゃん」 というのが正直な感想😂 やりたい!と思うことなんて 日々の生活の優先順位を考えると 後回し後回しにするしかない そう思い込んでいたから やりたい!って思う気持ちすら 沸かなくなっ
自分が思う相手のイメージ 相手が思う自分のイメージ 自分が思っている自分と 相手が思う自分って やっぱり違うことが多かったりする 特に長い間定着してきたイメージがあると それが当たり前のようになっていて 違和感すら感じないこともあるかもしれない あなたってこういう人だよね と付けられたラベルは いつのまにか自分の中でも 当たり前のものとして位置付けられたり 本当の私が違う!と言ってたとしても その声を無視して 私はそういう人間だから… と思ったことがある人もいると思う
いつも人の粗探しをしている人 近くにいませんか? あの人のああいうところが… あの人っていつもさ… ね!ね!おかしいよね? そうやって誰かの欠点を見つけて あーだこーだ言っている人がいたら 自分の心を守るために 距離をとっていこう! 物理的に距離を置けない人もいると思う そういう時は心の中で唱えるんです あぁ頑張ってるって認めてもらいたいんだな って この言葉を挟むだけで その人との物理的な距離は置けなくても 心の距離はぐーーーーんと開きます 距離を取らずに真面
よしやるぞ!!!! そんな心意気と共に一歩を踏み出そうとする その時に襲ってくる不安や心配 一気に自分を安心安全の今の場所に 引き戻そうとする力 変化を前にすると 人は安心安全な場所にいたいという 働きがやってくる それがコンフォートゾーン コンフォートゾーンから抜け出そうとする時 必ずやってくるこの状態 この時に多くの人が 不安や心配にかられて 今の自分ではまだ足りていないから 今のままだと失敗する これではいけない もっと荷物を用意しなくちゃ もっと完璧な自分にな
その生きづらさや苦しさ、不安は 一体どこからやってくるんだろう? あれもやらなくちゃ これもやらなくちゃ 頑張らなくちゃ 変わらなくちゃ 稼がなくちゃ 友達作らなきゃ 嫌われないようにしなきゃ こうであるべきだ! これこそが正しい! これは間違ってる! こうしないといけないんだ! なんでこうしないんだ! それが当たり前なんだ! 母親だから 父親だから いつからかこうやって自分の中に作り上げてきたルールみたいなものがある それは生きてきた環境の影響もあるし 自分自身が過
憧れや理想を描くのは とっても素晴らしいこと ただ、 もしもその憧れや理想が 誰かとの比較の中でできたものだとしたら 一度立ち止まって 考え直した方がいいかもしれない 誰かとの比較の中にできたそれは 今の自分を否定するものではない? 今の自分じゃダメだから あの人に比べて私なんて 変わらなきゃ変わらなきゃ変わらなきゃ そうやって今の自分自身を否定して 描いてしまう理想は、 どんどん心を苦しめていく 誰かと比べてすごい自分になんて なろうとしなくていい そもそも、すご
まじめにふまじめかいけつゾロリ🎵 でお馴染みのこの【まじめにふまじめ】の言葉 本当に大好きで、どうでもいいマインドを推してる自分としてはとってもしっくりくる言葉🥺 まじめにふまじめって私的には受け流す力でもあるのかなと思っている 私も真面目だから(笑) 全てを受け入れてたんですよね 相手からの理不尽も心無い言葉も態度も 全部全部真面目に受け取っていた で、めちゃくちゃ落ち込んで傷ついて凹む バカ正直に、私がダメだからこういうことが起きるんだって全部自分が悪いんだって決め
これって自分のことを知ってるからこそできることだよなぁーと思った。 たまたま職場の同僚と話していると 「6割できたらOKって決めてるんだ」 とその人は言っていた。 これってとても大事なことだし、 何より自分の限度を知ってるからこそ 決められることだよなと深々と思った。 誰かと比べるステージにいると、 もちろんそこに自分はいなくて、 あの人がやれている基準で自分を見てしまう。 そうなると私ってダメだなって方向に行きやすい。 私ももっとできるんじゃないかって期待もあるし、
息子は、発達ゆっくりちゃん。 関係機関とのやりとりをすることが多いけど そのたびに感じる心の声。 「いま話を聞いて欲しい。」 「いまの様子を見て欲しい。」 主要検査や病院は 最低でも3ヶ月先の予約は当たり前 「いま」感じている悩みと その数ヶ月先の予約時点での困り感って 全くもって違う・・・ 同じでもピークが違う、波がある。 「いま」辛いなって感じていたり 「いま、これで困っている」ことがある その時にちょっとだけ手を差し伸べて欲しくて ちょっとだけ寄り添って欲しくて