ねぇ、ミニトマト一緒のタイミングで食べようよ
3人グループになると、大抵2:1の1のほうになる。
わりと気にならないけど、地味に嫌な思いをする。
あれはたぶん、勝手にミニトマトを食べてしまうからかもしれない。
いやどうだろうか。
一緒に食べようと言われれば、その子が食べるまでたぶん待つ。どちらかというと、ただ単純に私はそういうことは思わないし、言わない人間なのだ。だから合わせてあげている感じが出て嫌がられるのかもしれない。
「ねぇ、ミニトマト一緒のタイミングで食べようよ」
を聞いた日に
「わたし、ワーク9ページ目!」
「わたしも!一緒だね!」
「ねぇ先生、わたしたちおんなじページなの!」
って言われた。
(私は週に1度学童のスタッフをしている)
「おお~そうなんだねぇ!👀」
と答えたけれどちょっとギョッとしてしまった。
というのも、わたしはあれがあまり得意でないのだ。
久々に聞いた。なぜ小学生の女の子はああいう連帯を持とうとするのだろうか。「ねぇ、一緒にトイレ行こうよ」現象。
あなたとわたしは友達だよね?つながっているよね?仲間だよね?
という確認は小中学生の時よく行われてた気がする。消しゴムの交換だったり、おそろいのキーホルダーだったり、手紙の送りあいだったり。私もしてたな。
でも、同タイミングで同じことをしようね、という約束(もしくは確認)はそのニュアンスをベースにして、裏切ってはダメだよ?みたいなのどの詰まる力強さ・束縛をプラスした感じがして苦手だ。言われる度に縄が絞められていく感じがする。
(言い方や文脈によっても変わるだろうけど…)
こわい。
それを多用するタイプの女の子は割と権威者というか、クラスやグループの中で声の大きいひとだという印象があって(随分偏見かもしれないんだけど)それが思い出されるのかもしれない。しかも、結構簡単に離れていくし、見限るよね、と思っている。
あの言葉は、その場の気持ちを高めるためだけで、関係性を担保はしない。破ると関係が崩れてしまうかもという重さとその程度でしかない関係性の薄さが滲む言葉だという気がする。
何をするにしてもひとりが苦になりにくい私にとって、あれはうまく理解できなかった。(休み時間、小学校の図書室で毎日ひとり、「ニッポンの嵐」を読みふけったり、自習時間に集中できないからと言って廊下に机を移動して壁に向かって勉強するような子だった。)
しかし、その人にとっては必要で自然な関わり方や距離なんだろうとも想像する。
学年が上がるごとにそういう連帯の仕方は減っていったような気がするけれど、あれは何だったのか。食べることや排せつまでもが同期の対象になれてしまうのはなぜなのだろう。
居場所のなさや拠り所のなさなのだろうか。もしくは、隣に人がいるのが当たり前なのでそうしているだけ?もっと仲良くなれた証とか?その場が楽しくて心地いい感じがしてやっているのかもいれない。
ざらっとした感触の問いが久々に思い出されてしまった。
ずっとずっとちょっとわだかまりのある文化。