ハイデッガー 妻エルフリーデへの書簡 僕の愛しいゼールヒェン(繊細な女の子)
2005年に発行されたこの書簡交換は、かれらの孫娘、ゲルトルードが編纂、編集している。ゲルトルードは 祖母の遺言で、古い鍵を貰った。その鍵には絹のバンドが付けられていて、バンドには《この鍵は私の死後 孫娘のゲルトルード ハイデッガーだけが所持する》と手書きで書かれていた。それは古い木箱の鍵で、その中には、祖父マルティン ハイデッガーから祖母エルフリーデへの手紙や葉書、1915〜1970年迄が、ギッシリ詰まっていた。
それらから、政治的な表現や、アンチセミティスムが見られる書簡等排除して、編纂されている。本来はハイデッガーの研究者たちにとって それらの手紙が重要だと思うが、それは今後機会を見計らって 発表したいと、編者は書いているが、その後、2014年に黒いノートが発表された事もあってか、今尚それらの書簡は公にされていない。
ハイデッガーが教授号を習得し、マールブルク大学で正教授では無い准教授(ドイツの大学ではドチェントDozent と言う)の時、レーヴィットは彼の元で教授号を修得しようとし、最終的に1928年ハイデッガーがフライブルク大学に移った後に、フライブルクで教授号を修得した。ハイデッガーはレーヴィットより9歳年上で、その間公私共に深い交流があった。どんな交流だったのか、この本の中で見つけた一通を簡単にに訳してみる。ハイデッガーの性格が少しわかると思うので。レーヴィットはこの時点で、ハイデッガーを見抜いていなかったと考えるのだが。
ミュンヘンにて 1923年3月27日 僕の愛しいゼールヒェン!
君の愛のこもった手紙、どうもありがとう。どうも僕の出した手紙と行き違いになったようだ。 〜中略〜 (ベルリン大学の教授たちは)彼らから 聞いたところによると、彼らの仕事を如何にものんびりとやっているという様子だ。だが、僕は全力を尽くすしか無いーいかんせん 僕はただのドツェントだから。
〜中略〜 レーヴィットのところではとても暖かいもてなしをしてもらった。ーこのお坊ちゃんは輝く様な蔵書を持っているー僕のよりずっと多く、ずっと良いーでもそれは結局何の役にも立ちやしないーちょっとした飾り物みたいなもんだ。年上の方(注:レーヴィットの父親)は 何でも《教授》絵描き という事だー彼は僕をアトリエに呼び込んだーそこに置かれているのは、失敗作だがー今日も二回も呼ばれた。。。
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