日常に冒険を取り入れる小さな工夫
旅に出なくなり、どれほどの時間が経ったのだろう。
数年前までは、仕事でもプライベートでも、月に何度も新幹線に乗り国内を移動していた。大型連休ともなれば、高いフライト代に頭を抱えながらも海外旅行を計画し、帰国してからは「次はどこへ行こうか?」と、新たな旅を考えるのが楽しみであり、仕事へのモチベーションにも繋がっていた。
旅のわくわく感、高揚感は日常では得られない。
文字通り日常とは異なる地に身を置くことで、解放感があり、知らない道を歩き、知らない料理を五感で味わう、その未知との遭遇が私にとっての旅の醍醐味であった。
それが、コロナ禍での生活で一変した。
ついに落ち着きを見せたかと思いきや、ここ最近はまた次の波が来ているようだ。
旅に出られなくなったことで、なぜ人は旅に出るのかと考えるようになった。
時代により、人により、また同じ人でも人生の時期により、色々な理由があるのだろう。
私にとっての旅に出る理由。それは、「冒険心を満たすため」だと思う。
30歳も過ぎたいい大人だが、人間はいつまでも冒険心を持ち続け、新たな発見を求めている、そしてそれは本能的なものなのだろうと感じる。
かつての日々がいつ戻るのか、いまだに分からない。とは言え、本能的な冒険心を放っておくのも、ストレスである。次回の旅行のために!というモチベーションも、なかなか持続し難い。
そこで、旅に出ずして、冒険心を満たす。
最近はこれをテーマに生活している。
実際に、日常の中でちょっとした工夫をしてみているが、案外楽しめている。もちろん、海外旅行のような旅を完全に代替できている、とは言わない。それでも、旅の効用である「わくわく感」を得られていると実感し、日常に張りを与えてくれている。
今回は二つの工夫を紹介する。
一つ目の工夫は、歩くこと。
あまりに普通すぎて、読むのを止められそうだが、事実、冒険心が満たされるのである。
歩くと言っても、山歩き、街歩き、様々である。
コロナ禍になる少し前に長野へ引っ越したこともあり、まずは山歩きをしてみた。土の匂い、木々の匂いを味わい、普段とは異なる視点から街を眺める。日常で慣れ親しんだカップラーメンであっても、山頂で食べれば笑顔になるほど別の味。
見知った界隈のはずが、視点を変えるだけで非日常になり、冒険の場所になった。
街歩きも、あなどるなかれ。
歩くときにはついつい音楽やPodcastを聴いてしまいがちだが、最近はこれを止めてみた。耳を塞がなくなったことで、散歩をしながら見えてくる景色、聞こえてくる音に気が付きやすくなった。
例え小さなことでも、知らなかったことに気がつく、この未知との遭遇が冒険心を満たしてくれる。
二つ目の工夫は、読むこと。
何十年、何百年にも渡って言われてきたことなのだろうが、本はまさに知らない世界へ連れて行ってくれる。それは小説やSFであっても同じだが、特に紀行文や旅のエッセイは、数ページを読んだだけでも私をその世界へ導いてくれる。
最近、「わくわく感」を得られたのは、原田マハの”やっぱり食べに行こう。”
時間が許せば、沢木耕太郎の”深夜特急”も読み直したい。土地の熱気も伝わるほどの文章から、まるで冒険を共にしているかのような時間を過ごせる。
日々は仕事のタスクや家事で、いつの間にか過ぎてしまう。
日常に冒険を取り入れるには、意識的な行動が必要だ。
だが、その行動は案外ちょっとしたことで良い。小さな工夫が日常に張りを与えてくれる。そう気が付けたのは、コロナ禍の数少ない利点の一つかもしれない。
次はどんな冒険に出ようか。