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抑圧の記憶と、いま振り返るための視線~反抗期を考える~

私は幼い頃から、親の言うことに逆らうことができなかった。自分の中にある違和感や生きづらさを客観的に捉える術がなく、周囲の顔色をうかがいながら日々を過ごしていた。何か言いたいことがあっても、「どうせ認められないだろう」と思って声に出す前にブレーキをかけてしまう。そうして自分を抑圧することが、逆に自分を守る方法だったのかもしれない。

家族関係にも強い抑圧があった。とくに、いま直面しているのは父が私の息子に対して抱く将来への不安やネガティブな思いを、そのまま私にぶつけてくることだ。「おまえの育て方が悪い」「そんなことであの子は大丈夫なのか」という否定的な言葉を投げられるたび、やるせない気持ちになる。かつての私がそうだったように、今度は私の息子が抑圧されてしまうのではないかと思うと、自分の無力さに直面するしかない。

私は幼稚園には半年ほどしか通わず、なんとなく「ここには安心していられない」と感じた記憶がある。当時はただ息苦しいという感覚だけが残っていた。大人になってから振り返ると、もしも環境やタイミングがもう少し違っていれば、自分も精神疾患に近づいていた可能性は十分あったはずだ。過去の自分を思い出すと、「気づいてあげればよかった」と後悔もするが、今はそれも含めて冷静に分析し、客観的に受け止める必要を感じている。

ただ、今さら「反抗期」をやり直すわけではないし、反抗だけが「生きていてよかった」という感覚につながるわけでもないと思う。自分が生きづらさを感じるなかで、ほかにもさまざまな方法で「ここにいていいんだ」と思える瞬間を作ることはできる。たとえば、同じ悩みを抱える人との気持ちの共有や、カウンセリングへのアプローチ、自分なりの表現活動などが挙げられる。結局は「自分が安全だと思える状態」を確保することが大切で、それこそが“心理的安全性”ではないだろうか。


反抗期について思うこと

反抗期は、大人に対して自分の考えをぶつけることでアイデンティティを育む大切な節目だとされる。しかし、反抗の機会を許されなかったり、抑えつけられたりすると、そのわだかまりは大人になってからも残り続けることがある。一方で、人によっては明確な反抗期を経験しないこともあるし、反抗しなかったからといって自我の確立ができないわけでもない。むしろ、いくつになっても「今の自分が何を感じているのか」を丁寧に見つめ、必要とあれば周囲に助けを求めることで、自分の生きづらさを和らげる道は開けるはずだ。大切なのは、自分が「生きていていいんだ」と思える手ごたえを少しずつ積み重ねること。そして、それに共感したり、寄り添ったりしてくれる存在と出会うことだと思う。反抗期とは、あくまでそのための一つの入り口に過ぎないのかもしれない。

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