お釈迦様に挑戦!新年早々なぜかカルマについて考える。
こんにちは。らいおんです。
新年あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
多くの人がブログやSNS上で新年の抱負を書いておりますが、どうもそういうのが苦手でして(←”ものぐさ”なだけw)、年末から年始にかけてずっと「カルマ(業)」について考えていたので書いてみたいと思います(←なぜ!?)。
ちなみに”ものぐさ”って何気なく使ってますが、怠ける、面倒くさがって行動しない、といった意味ですが、語源が気になったので調べてみると、「ものぐさ」とは「物臭」と書いて、そもそも古文で使われていた「物臭し(ものくさし)」との言い方から由来しているようで、意味としては字の意味そのままに、臭い、匂う、といったところから、怪しい、病気で体調が悪い、気分が乗らない、面倒くさい、といった意味も持っていたのだそうです。ここからやがて「物臭(ものぐさ)」と短縮して言われるようになったのだそうです。新しい年の始まりにまた一つ賢くなりましたね(笑)
さて、というわけで、”ものぐさ”らいおんが真面目に「カルマ(業)」について考えます。
「カルマ」はスピリチュアル業界でもよく使われている言葉で、怪しげな占い師が「あなたが不幸なのは過去生の悪業(カルマ)が原因だ!(だから壺を買え!w)」と言っていることでもお馴染みですね(笑)。
エナジーワークでももちろん「カルマ(業)」は取り扱うですが、これもエネルギーの一種だと考えます。ただこの「カルマ(業)」、著者にはエネルギー的に「よくわからないなぁ(はっきり視えない、という意味で)」と以前から思っているテーマでして、年始なので(←関係ない)じっくり向き合ってみたいと思います。
お釈迦様が考えることを禁止した「業(カルマ)」とは!?
「カルマ(業)」は、もともと仏教で説かれている考えで、仏教では以下のように定義しています。
実は知らなかったのですが、お釈迦様(ブッタ)は、「業(カルマ)」について考えることを禁止していたそうです!?
その理由を上記の本では以下のように解説しています。
ちなみに、その他にお釈迦様が「考えちゃダメよ!(頭がイカレますよ!)」と言ったことが3つあるので、合わせて紹介したいと思います。
①ブッダの境地
ブッダたちの、ブッダとは何ですかという領域・境域のこと(ブッダとはこういうものだというブッダに対するすべてのこと)は、考えても考えても終わりません。考える人の心は狂気になります。
②禅定
禅定(心が動揺することがなくなった一定の状態)の経験に入っている修行者の禅定は何かということは、人間には考えることが不可能です。考えてはならない、考える人の心は狂気になります。
③世間
世間(生命や宇宙と同義)の考察も思考し尽くせるものではありません。思考する人の心は狂気に陥ってしまいます。
この解説を読んで「エナジーワークの原則である『分析的思考の禁止!!』と同じじゃん!」と深く納得しました。
エナジーワークでは、分析的思考を排除して、直観(透視能力)のみでエネルギーを視て、それらを流して(手放して)いきます。
従って、お釈迦様も「カルマ(業)」をエナジーワーク的(思考ではなく直観で)に解釈していくことは怒らないだろう、と勝手に解釈して(笑)、お釈迦様が禁止した「カルマ(業)」について考えることに挑戦してみたいと思います。(ちなみに、エナジーワークでは「ブッタの境地」「禅定」「世間」も同様に直観(透視能力)でじゃんじゃん視ちゃいます。仏僧の皆さん、どうぞ怒らないでください 笑)
仏教における業論のポイント
まず、仏教における業論のポイントを解説しつつ、エナジーワークの観点から考察してみたいと思います。
ポイント①:命の材料は業である
仏教では身体も心(感情や気持ち)も業でできている、と考えます。エナジーワーク的に考えると、身体も心も全てエネルギーである、といえますね。
ポイント②:業は相続するものである
生まれる瞬間に、業という生かされるエネルギーを相続してこの世で生命が現れます。そして、業は他人に管理不可能だと考えます。この辺も自分の魂は自分しか癒せない(他人に癒されることも癒すことも本質的には無理)、と考えるエナジーワークと共通点を感じます。
ポイント③:幸不幸は相続次第
仏教では、業のエネルギーを非常に大きなものと考えるため、その人が幸せになるか不幸になるかも相続した業次第と考えます。今の生き方は関係ない、反映されないというのは何とも救いがないですね。。(苦笑)ただ、この辺への救いはちゃんと用意されているので、後ほど解説したいと思います。
ポイント④:業は起源である
仏教では、業が生命を生み出すと考えます。神ではないんですね。(仏教では絶対的な「神」という概念はありません)従って、業に関して(幸せになりたい、不幸になりたくない)などを神様にお願い(祈り)すること自体がナンセンスだと考えます。
ポイント⑤:業は親族である
仏教では、生まれてきた人は、親族によって守られて育てられると考えます。そして、死ぬまで絆は切れません。従って、仏教では、その人が何者になるか(態度・生き方・性格など)は全て親族の管理の結果であると考えます。なので親族=業ということになります。
従って、占いなどで「現在の不幸はご先祖の因縁だ」などと言うのはインチキだと仏教では考えます。ご先祖を供養しても、自分の業とは無関係なので、幸せにも不幸にもならないと言うことですね。
この辺はエナジーワークの考え方と少し違う部分ですね。
エナジーワークでは、親族(ご先祖を含む)の管理のエネルギーを「ファミリーコントロールエネルギー」としてエナジーワークの対象として取り扱い、それらから自身の魂を解放することを目指します。つまり「なんとかできる物(自分が何者になるかに親族が干渉することに「ふざけんな!!」と中指を立てて、全力で抗います 笑)」だと考えるわけです。
ポイント⑥:生命は業に依存する
仏教では、生命は業を拠り所にして生きる物であり、業から解放されて自由に生きることは不可能であると考えます。この辺も上記同様、エナジーワークでは自分の魂の自由を奪うような業は積極的に解消していく態度で臨みます。
ポイント⑦:業が生命に差をつける
仏教では、優れた生命になる、卑しい生命になるなどの生命の差異は、それぞれの業のはたらきによる、と考えます。ただし、差があるからといって差別を正当化しているわけではない点に注意が必要です。なぜなら、どの生命も輪廻転生を繰り返す中で、善業も悪業もほぼ同じ量を背負っていると考えます。従って、ある一瞬の生命の在り方の差を見て、どちらが優れている、劣っているなどとは言えない、と言うことです。
ここまでの説明を読むと仏教では業(カルマ)からは全く抜けられない、輪廻転生も含めて人生が業に縛られて身動きができない、と感じるかもしれません。
しかし、仏教では、業(カルマ)は絶対、避けられないものと考えながら、絶対的なものではないとも考えています。つまり、業(カルマ)は5つの因果法則(①自然、②種子、③業、④法、⑤心)のうちの1つである、と考え、業もその他因果法則に制約されると考えたわけです。
さらに、仏教では業を理解した上でどう生きるかについても説いています。
そこで大事になるのが「意志」です。
業+個人の意志で生きる
仏教では、業は、業だけではたらくわけでなく、意志も環境も関係すると考えます。従って、私たちは業を気にする必要はない、と説きます(考えすぎると頭がイカれてしまうので)。例え業が善くなくても、舵を操作することで(意志の力で)生きる道を変えられると考えるわけです。仏教ではこの「意志」を強烈に押します。そして「業はどうにもならないので放っておきなさい。あなた方が気にすべき大事な業は『意志』だ」、つまり「意志が業だと理解しておきなさい。これで安全ですよ」と説いたわけです。
ここまでくると「分かるような、分からないような。。。」と言う感じになってきますが(苦笑)、「意志の力」でエネルギーを動かして魂の生きる道を変えていく、と言う点ではエナジーワークと相通じる哲学を感じます。
さらに仏教では、結果・過去の業はどうすることもできないので、起こったことに執着するのではなく、常に「今どうするか」のみを考えて意志によって新たな行為をすることが業の正しい捉え方だと考えます。
この辺も「イマココ(Present time)」のみに意識を集中して、エネルギーを動かしていくエナジーワークと共通しますね。
いずれにせよ、仏教もエナジーワークも業、輪廻転生から完全に解放される「解脱」を目指しているわけで(個人的な考えですが)、業の捉え方や対処の仕方は違えども、今までエナジーワークの中でもよく理解できていなかった「カルマ(業)」に関する理解が深まった点で、今回もお釈迦様に感謝したいと思います。(おしまい)
*記事に記載した内容はあくまで個人の見解であり、記事に記載した団体等の公式見解ではありません