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『兎とよばれた女』part2/存在の不安【えるぶの語り場】


はじめに
矢川澄子の文章や他の人が彼女について書いた文章をそれなりに読んできた僕は、
彼女の人生が彼女の作品に大きな影響を与えていることが明確にわかってしまいます。
なので、『兎とよばれた女』を読んでいても、生々しさを感じてしまう...
こんなにメルヘンなタイトルなのに不思議ですよね。

「この幻想的な物語を読むのはどういう気持ちなのだろう?」

という問いをソフィーに投げかけながら話す企画も第二回となりました。
毎度のことではありますが、途中で大きく話が脱線してしまい、お互いの読書体験なんかについても語っています。
そちらも是非、楽しんでいただければ幸いです。

シュ:今回、ソフィーは前知識がない状態で本書を読んでいるわけだけど、
どうですか?

:確かに「翼」の章でも堕胎の話が出てきてたりしてシュベールの言うところの生々しさのようなものは感じるのだけど、
あまり違和感は感じなかったんだよね。

確かに、表現が独特すぎて何を言っているのかわからない部分もそれなりにあるのだけど、変なものを読んでいるという感覚はなかったかな。

どうしても思い出せないのだけど、こういう冒頭に不思議な出会いがあって「今からあなたにそれをお話をするわ」という導入がある古典作品か童話をいくつか知っている気がする。

矢川の手法は知らないから適当なことを言うかもしれないけれど、
俺たちが無意識のうちに親しんでいる古典主義的な物語をしっかりと踏襲していると思うので、違和感はなかったかもしれない。

シュ:「古典主義を踏襲している」というのは、おそらく正解なんだよね。
というのも、矢川のエッセイの中で彼女の読書体験について書いているものがあるのだけど、
彼女の読書体験の原点は教育学者の父親の本棚と書いてあった。

幼少期から家に古典文学が溢れかえっていたので
彼女はそれらを読み漁っていたらしい。

:うん。どこか懐かしい感じがした。

シュ:あと、彼女は児童文学の翻訳者としても有名なので『不思議の国のアリス』など...
童話なのか古典文学なのかは、断定できないけれどそれは正解な気もする。

:この年になったからつくづく思うのだけど、
子供のうちの読書体験というのは成長してからの人格形成に大きな影響を与えるよね。

シュ:どんな本を読んでいたら君はこんなになっちゃったんだい(笑)

:それな(笑)シュベールはいつから自分で本を読むようになったの?

シュ:僕は日本で言うところの幼稚園の年長ぐらいかな。

:早いな(笑)

シュ:その時は海外に住んでいて、周りでハリーポッターがすごく流行っていたんだよね。
現地だと異物だった僕は、周りと話題を合わせるために共通の物語を知る必要があったんだよね。
難しい言葉が多くて「これどういう意味?」と両親に聞きながら必死に読んだ。
これが僕の読書体験。児童文学スタートだね。

:なるほど、児童文学スタートっていうのは今のシュベールを形作っているよね。
でも年長だなんて、ひらがなも満足に読めないんじゃない?

シュ:両親が教育熱心だったから小学校1,2年生ぐらいまでの漢字は読めるようになっていたんだよね。
あと、頻繁に読み聞かせをしてもらっていたので。

:なるほど。それは羨ましいな。

シュ:テレビとか漫画は禁止されていたけどね。
ソフィーの読書体験はいつだったの?

:俺はね、本を読むのが苦手でね。
どちらかというとテレビっ子だったんだよね。
だからアニメとかをたくさん見ていた。

字を読むというのがすごく苦手だったというのと、絵を描くのが好きだったので、
視覚で訴えてくるものが好きだったんだよ。

漫画すら読めなかった記憶がある。漫画って字を読まなきゃいけないじゃん。

本を読み始めたのが、中学二年生のときかな?
外国語文学ってかっこよくない?という動機で読み始めた。

あと、太宰治の存在は大きかったと思う。
中学生の時って多感になる時期じゃないですか、でも中学生ぐらいの時期はそれを言葉にする方法を知らないわけじゃないですか。
自分が感じていることをどう表現すれば良いのかわからない時期が続いている中で太宰を読んだんだよ。
そしたら1ページ読むたびに「自分の感じている気持ちはこう表現するのか!」という気付きを得られて嬉しかった。
それがきっかけで読書にハマったのだと思う。

シュ:ロゴスを求めていたんだね。
聞いているとさっき言っていた通り、読書の原体験は今の人格形成に大きな影響を及ぼしているというのも納得できるな。

話を戻すけれど、この物語を読んだ人間が何を感じるのかが気になっていて。
他にはどうですか?

:「存在の不安」についてかな。

シュ:「存在の不安」

:彼女は言葉をすごく重んじているわけだけど、それとすごく矛盾しているのがp26の「名前なんぞどうでもよいけれど」という一節。
それがすごく引っかかった。
名前だって言葉なのに、これだけ言葉を重んじている彼女が急に投げやりになるのが違和感を覚えた。
確かに彼女が言う通り「言葉が未来を作っている」とは思うと同時にとても脆いものだとも思うんだよ。

そういう中でなんで存在の不安を感じたかというと「他者との関係性のみでしか自己規定をできない」「自分の名前を決めることができない」からなんだよ。

言葉を信頼しながら言葉に対する不安がある。
言葉が世界を作っている以上、存在に対する不安も感じていたのではないかな。

日常では考えない「言葉」に対する不安に気が付かされて、ハッとはしたけどすごく怖かった。

シュ:そうだよね。僕も矢川のエッセイを読んでいて常に付きまとう存在の不安というのはすごく感じるんだよね。
その精神状態に陥った状況を想像すると、背中が寒くなるよね。

僕が『兎とよばれた女』を読んでいたそれを感じた場面はここ。

でもね、女がひとりでとぶということは、どうしてこれほどにもむずかしいのでしょう。いたずらに気張ってみたところで、せいぜいが、むなしい足掻きのはてにわずかに宙にうきあがるくらい。わたしの直観に狂いがなければ、女はおそらくひとりぼっちではとべないものなのよ。

(兎とよばれた女, 2008, p.32)

自己規定を他者との関係性の中でしか見いだせていない。
弱い人間だったんだな、としみじみと思うよ。

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