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「劇場」と「物語」/ミヒャエル・エンデ『モモ』【×えるぶの語り場】

今回の対談は世界的に有名な児童文学であるミヒャエル・エンデの『モモ』を2人で読んでいきます。
「時間」がテーマになっており、現代社会への風刺として多く取り上げられる本書ですが
時間泥棒が現れるより前に描かれる「子供たちのごっこ遊び」の場面も非常に魅力的です。

「何だか遊びが盛り上がらない、何だかつまらないなぁ...」

そんな時、新しい仲間が加わることや、何かきっかけがあったりして、一気に遊びが盛り上がる感覚。

円形劇場が、あっという間に大海原に姿を変えて、突然に冒険が始まる子供特有の高揚感。

ああいう時間が、自分にもあったことを思い出させてくれる素敵な場面です。
今回はその場面が描かれる「劇場」と「物語」の関係性について話してきました。

:この物語の舞台はイタリアなのかな?

シュ:だと思われるんだよね。というのも物語の中ではそれについて明言されていないんだよね。
でも、町の人たちの名前や様子から考えるとイタリアがモチーフだと考えられるかな。

:読む前にシュベールが円形劇場について話していたから、注意して読んでいたのだけど、
最初はピンと来なかったんだよね。というのもローマのイメージは円形劇場ではなくて、円形闘技場なんだよね。
でも、この物語では執拗に「劇場」であるとこと主張したり、喜劇・悲劇について語ったりしていて、最初はギリシャなんじゃないかと思っていたんだよ。

でも、ジジの本名がジロラモという名前だし、ジジの作り話の中に登場する皇帝の名前が明らかにラテン語の名前なので、そういったところからイタリアなのかなと想像していた。

シュ:うん。なので円形劇場の廃墟はローマ帝国時代の廃墟なんじゃないかなと僕も考えている。

これだけ劇場について強調した後に、町の人々の紹介パートに移行するのは、構造的には上手だよね。
舞台と役者を自然な流れで紹介している。
「これから物語が始まるんだ!」というワクワク感が沸き立ってくる。

:うん。文学において劇場という概念は重要な舞台装置になっているよね。
物語が今後どういう展開をするのかはわからないけれど、劇場だからこそ子供たちが教授や船長になりきって「ごっこ遊び」に専念できたり、
モモが姫になったり、ジジが王子になったりと他の役を自然に演じることができる。

モモから離れて物語全般の話になってしまうけれど、物語が行き詰まった時にエクス・マキナみたいな絶対的な存在を登場させて、
強制的に物語を終了させることもできてしまうよね。

シュ:矢川澄子の『兎と呼ばれた女』もそうだったよね。最終的には修正したけど(笑)

:うん。そういうように劇場というのは、物語の中で大きな意味を持つ存在だよね。

シュ:これは後の物語に関連してくるのだけど、演劇というのは生きる上で全く必要の無いものだけど
だけど、その必要の無いものを行う場を物語の冒頭に持ってきているのは非常に上手な構造だと思っている。

まあ、その辺は第2部を読めばすぐにわかると思うので、ネタバレとかではないです(笑)

:そうか、楽しみにしているよ(笑)

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