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自分の気持ちに素直に。

「自分の気持ちに素直に」

これは、両親が僕の名前に込めてくれた意味です。
その想いのまま、僕は「ヘラルボニー」という道を選ぶことができました。

今回は、その選択に至るまでの歩みをお話します。


はじめに

2023年11月に入社しました能澤直也(ノザワナオヤ)と申します。気がつけば、入社してから1年が経ってしまいました。

経営企画室への配属で入社し、現在はリテール事業部のマーケティングとオンラインセールスのチームで様々な業務に携わらせていただいています。

遡ること2023年8月、ずっと想いを抱いていた領域で最も入りたいと思った組織であるヘラルボニーへの入社を決意。

新卒で入った前職は2年弱での退職でした。

転職前、時間を見つけては読んでいたヘラルボニーの入社エントリーを自分が実際に書く立場になり、「ついに来たか...」という気持ちでこの文章を綴っています。

人にあまり話したことのない等身大の自分について書くことで、「こんな人もいるのか!」とヘラルボニーをより身近に感じて、応援してくれる人が1人でも増えれば嬉しく思います(自己開示って思ったより勇気がいりますね...)。

それでは、少しばかりお付き合いいただけますと幸いです!

自己紹介

まずは、自分の話を少し。

京都府出身の1996年生まれで、好きなことは、筋トレ・読書・映画・海外旅行。

MBTIはESTP(起業家)で、好きな天気は快晴☀️、将来はスカイダイビングを極めたいなぁとなんとなく思っています(セブ島でのスカイダイビングが最高すぎました)。

筋トレはぼちぼちと継続していて、ベンチプレスでのMax105kgを更新してから停滞中です...。最近は懸垂バーを購入しました。

海外旅行では、これまで約20カ国ほどを旅しました。個人的なおすすめは異世界すぎたエジプトとアイスランド。

リスクテイクしがちな性格が災いし、海外では危険な状況に何度も巻き込まれましたので、興味のある方はぜひ話を聞いてください。

家族の話

僕には、母・妹・弟の3人の個性溢れる家族がいます。

母は毎日「いつ寝てるん…?」という感じの働き具合で、僕が4歳の時から僕たち3人を女手一つで育ててくれました。

妹はとにかく足が速くて陸上で全国レベルの大会に出場し、大学から始めた別のスポーツでも日本代表チームとして世界大会2位の成績を収めるほどのアスリート。年齢が近いこともあり、大人になった今は色んなことを気軽に相談できる有り難い存在です。

そんな家族メンバーの中で、弟と父は僕のキャリアと人生に最も大きな影響を与えてくれました。

僕の弟には先天性の心疾患と知的障害があります。今は特例子会社の障害者雇用枠で採用を受け、メンバーに恵まれた職場で毎日楽しそうに働いています。

生まれた瞬間から生死を彷徨うような手術を何度も繰り返し、口からご飯を食べることも今後できないだろうと言われていましたが、それらを乗り越えて、今では家族の中で一番の大食いでその生命力と食欲には家族みんなで驚いています。

その他にも僕の弟は、絶対に遅刻はしない・計画的に貯金する・毎日決まった時間に起きる(元旦でも5時起き)など、なかなか僕にはできない尊敬すべき部分が多くあり、弟が今こうして当たり前のように生きていることが、本当に奇跡的で幸せなことだなぁと感じています。

病室での父と生まれたばかりの弟

僕の父は、弟が生まれてちょうど半年後、僕が5歳になる1週間前に他界しました。

急死でした。

父の記憶は少ないですが、母に嘘をついて一緒に競馬に行ったこと、父のお気に入りのサングラスを僕が壊してしまって怒られたこと、お葬式の時に棺の中に手紙を置いたことは覚えています。

不思議なことに、亡くなった日の夜「家族を守るんやで、頑張りや」と夢の中で父に言われたことをぼんやりと覚えています。

弟が生まれた半年後に他界した父は、弟の代わりに天国に行ってしまったのかなと昔から空想していました。

数年後には当時の父の年齢に追いつきます。少しは自慢してもらえるような息子になれていたらなぁと思います。

祖父の家にて
武闘派の親戚がいたので、パンチングボールがありました

「普通」への憧れ

母から聞いた話では、父が他界した後、まだ幼稚園に通っていた僕は精神的にかなり不安定になったそうです。

上手く理解できない「死」という概念と父がいつまで経っても帰って来ない状況との間で混乱していたのだと思います。

そんな中、弟の通院の際には、母が長い時間病室にいなければならず、じっとしていられなくてどこかへ行こうとする妹を、僕が父親代わりとなって見守らなければなりませんでした。

薄暗い雰囲気の病院でめちゃくちゃ不安で怖かった記憶があります。待ち時間が本当に嫌で、いつも長く感じていました。今思えば、「普通」より少しだけ大変な幼少期だったのかもしれません。

そして、明らかに「その感覚」を自覚し始めたのは小学生になってからでした。

自分が母子家庭であること、弟に障害があること。

自分の周りは、基本的に親は2人いて、きょうだいに障害のある人がいることもあまりない。

ましてや、自分と同じような境遇の人に出会うことはありませんでした(僕が知らなかっただけかもしれませんが)。

「普通」の家族に対して憧れているつもりはないし、自分の家族に何の不満もないのに、ある考えが頭の中を巡ります。

「もし父さんがおったら」
「もし弟に障害がなかったら」

誰にも言えないし相談もできない、そう思うべきでないと頭では分かっているのに湧き上がる感情、自己嫌悪になるような感覚に苛まれました。

そんな風に感じている自分に対してものすごく嫌気がさし、家族にも申し訳ないと思う一方で、自分が置かれている状況が何故かしんどい、でも変えられない、どうしようもないといった感覚がありました。

振り返れば、当時は考えすぎていたり、周りの目を気にしすぎていたのかなと思います。ただ今でも、親しくない人に父や弟のことを聞かれるとなぜか少しだけ言葉を濁してしまうこともあります。

もちろん、学生時代に家族のことで大変なことばかりだった訳では全くありません。家族仲はとても良いし、僕は家族のことが大好きです。

特に弟とは、一時期ジムで一緒に体を鍛えたり(無理やり)、週末に銭湯で将来のことに関して(僕が一方的に)語り合ったりしていました。最近は帰省する度に回転寿司で食べた枚数と体重を競い合っています(負けます)。

今までの生活では何も不自由もなく、母が作ってくれるご飯やお弁当は最高に美味しいし、母はいつも自分のことを後回しにして僕たちきょうだいを最優先で考えてくれていました。

母が欲しいものを買っているところもほとんど見たことがありません。

そして、歳を重ねるごとにその凄まじさを実感するのですが、僕と妹は奨学金を借りることなく私立の4年制大学を卒業させてもらいました。

(母さんへ、いつも生意気な事ばかり言って本当に反省しています。めちゃくちゃ感謝しています。いつもありがとう。)

妹が生まれてすぐの写真(弟が生まれる前)
僕はお母さん似だと信じています

想いの原点

そんなこんなで様々な思いを抱えていた僕は、勉強で将来の進路を切り開こうと中学時代に決めました。

小学生の時から続けていた野球で食べていける確率は低いし、勉強した方が将来の生活が安定する可能性が高まるのではと、実に打算的なアイディアでしたが、母子家庭で長男という自覚の元での考えでした(皮肉にも、結果的にきょうだいの中で最後まで母の扶養に入り続けるという非常に長い学生時代を過ごしてしまいましたが…)。

大学受験では自分なりには勉強を頑張りましたが、現役と浪人とで第一志望だった大学に2回落ちてしまいました。

浪人時代は1日13時間以上、睡眠・食事・お風呂以外のほとんどの時間を勉強に費やした上での受験失敗だったので、かなり落ち込みました。

ただ、その挫折と悔しさが糧となり、大学時代はカンボジアでボランティアをしたり、1年間の交換留学へ行ったり、アメリカやセルビアでインターンをしたりと活動的に過ごすことができました。

そして、大学卒業が近づくにつれて、今後の人生で自分は何のために生きたいのかを考えるように...。

自分だけのための人生ではなく、「今この瞬間、困難な状況にいる誰かのために何かできることをしたい」と思った時に、弟や母、カンボジアで出会った障害のある男の子の姿やセルビアで見た特別支援学校の様子などが頭に思い浮かんできました。

自分で選んだわけではない環境や要因で困難な境遇にあったり、挑戦への扉を閉ざされてしまっていたり、生きづらさを抱えている人たちがこの世界には大勢いる

可能性を狭める要因は、「障害」だったり、生まれた国/地域や家庭環境、宗教や性別、性的指向、文化的慣習など様々あるかもしれません。

「みんながもっと挑戦できる、生きやすい社会を創る一翼を担いたい」

当時、友人からの「国連入ればええやん!」という何気ない一言で国際機関を目指していたこともあり、僕は専攻を国際開発学(貧困と障害などの社会福祉分野をメイン)へと変え、イギリスの大学院へ進学することにしました。

大学院のコースメイトと共に
Brightonという多様性に溢れる街で過ごしました

ヘラルボニーとの再会

ヘラルボニーとの出会いは、大学院進学前の1年間のギャップイヤー期間でインターンを探していたことがきっかけでした。

障害福祉の関連で色々リサーチしていた僕はヘラルボニーという耳慣れない言葉と鮮烈なアートに驚き、「すごい会社あるで!」と母にすぐにシェア。

そして時は流れ、大学院を卒業した僕は2022年にPwCアドバイザリーという会社に新卒で入社しました。

ずっと国際機関への就職を目指していた僕は「国連行くならグローバルファームや!」と戦略的(短絡的)に就職先を決定。

PwCでの仕事はとてもダイナミックかつ刺激的でした(あと、めちゃくちゃ難しかった...)。メンバーの方々もプロフェッショナルとして尊敬できる本当に素敵な人ばかりで、非常に恵まれた環境だったなぁと思います。

キャラ濃いめの面白い同期(他も皆キャラが濃い)
PwCでの国際イベントにて

ただ、自分は「障害」など社会福祉に通ずるような分野で働きたいという気持ちが日を追って膨れ上がっていくのも同時に実感していました。

そんな悶々とした日々の中、僕を見かねた大学院の同期(海外で死線を何度も共に越えた仲間)がある日ヘラルボニーへの繋がりを紹介してくれました。

当初は興味本位でしたが、ヘラルボニー社員の方々との面接を通じて、「この会社で働いてみたい!」という純粋な気持ちが湧き上がってきました。

ただ、自分の理性的な部分が様々な側面を考慮し転職にストップをかけてきます。

そんな時、ある人に「ヘラルボニーの話をしている時、直也めっちゃ楽しそうやし挑戦してみたら?」とふと言ってもらったことがありました。

その後ヘラルボニーからも有り難くご縁を頂いた僕は、その言葉の後押しもあり転職を決意します。

これまで頭でしか考えたことのなかったキャリアを、初めて心で決めた瞬間。

約3年越しのヘラルボニーとの再会でした。

最後に

ヘラルボニーに入社して1年、やりがいに溢れ、毎日がとても楽しいです。自分の仕事一つ一つが、「障害」へのイメージが塗り替えられた未来を作っていると感じています。

そして、そんな未来では、社会との間に様々な障害を感じ、挑戦への道が狭められている人が、今よりも少しでも挑戦しやすく、そしてみんながより生きやすい社会になっていると信じています。

”Where there is a will, there is a way”「意志あるところに道は開ける」

様々な意見があるかもしれませんが、僕はこの言葉が好きです。

そして、「進んできた道を正解と思えるようにする」という姿勢を常に大事にしていたいと思っています。

大学に落ちたからこそ交換留学に挑戦しようと思えたし、海外の大学院への進学を諦めずに目指していたら、全額支給の奨学金を得てイギリスで学ぶことができました。

しかし、この世界には自らの意思の外にある不可抗力的な要因によって、そもそも挑戦することすら難しい状況にいる人々が大勢いることも事実だと思っています。

僕は人生を懸けて、そんな世界を少しでも変えたいです。

まだまだ未熟で至らないところばかりですが、自分の気持ちに素直に、日々邁進していきます。

家族の存在とこれまで出会い支えてくれた人たち、そして今まで歩んできた道があるからこそ、「ヘラルボニー」という新たな道へ進むことができました。

「この道を選んで良かった!」と、いつか必ず思えるよう未来へ歩み続けます。

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長文にお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
今後とも、よろしくお願いいたします!

快晴☀️ in Bali!

能澤 直也


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