真夜中のスーパーマーケット
知らない土地のスーパーマーケットが好きだ。
日本はとても小さな国なのに、すこし移動しただけで、食文化や生活習慣が驚くほどちがうことがあって、それを肌で感じられるから。見たことのない食べ物たちが、そこに住む人々の暮らしを想像させてくれる。
ましてや外国のスーパーマーケットはもっと面白い。
国籍や人種が違っても、人類としての共通点を見つけたり、サイズの違いに驚いたり、未知の食べ物にドキドキしたり。
バックパックを背負って南太平洋をアイランドホッピングしていた時は、入手できるタンパク質が得体の知れない貝と、ウミガメの肉のみだったことも今では懐かしい思い出だ。
(これを思い出すたびに「ウミガメのスープ」の話を連想してしまい、若干のトラウマでもある。)
なんにせよ、スーパーマーケットは、一生交わることのない人々の暮らしの温度さえ感じられる、不思議で素敵な場所だ。
今わたしが暮らしている町は、かつての私の「近場の旅先」であった場所だ。旅先で「ああ、ここに住んでみたい」と思うことはあっても、まさか本当に引っ越す人は滅多にいないと思う。我ながらなかなかに豪胆である。
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引っ越しの4日前に親友が亡くなり、引っ越し当初はこの家に彼女が遊びに来ることはもうないのだと、泣いてばかりいた。
一見ドライな彼女の御母堂が、彼女のいない病院の面会室で、私の胸に崩れ落ちて声を出さずに泣いたこと、私はまだまだ生きるからなっちゃんへの手紙は書かない、と言って、病室でお土産のたまごサンドをもりもり平らげていたこと、治療の途中の苛烈な傷跡を旅先で見せてくれたこと、15年間のいろいろなことが次から次へと蘇って、しばらくの間、わたしを苦しめた。
しかし、どんなに悲しくても、生きている限りお腹が空く。
メソメソしながらも、わたしはすっくと立ち上がり、電動自転車ブラウニー号にまたがり、5キロほど離れたスーパーマーケット、エスポットに買い物に行った。
※当時まだ車(正式名称「宇治金時号」、通称「まめ太郎」)が来てなかった。
※エスポットは食料品、日用品、園芸、カー用品、DIY関連、ペット用品までワンストップで買い物できる大変ありがたい施設なのである。
カゴいっぱいに食材を買い込み、自転車ユーザーが極端に少ない山間の町を、お年寄りに驚愕されながら駆け抜け、標高差100メートルの山を登って自宅に帰り着いた私は、その日、自分のために丁寧にたっぷりと料理をした。
そして、食事をしながら、孤独や焦燥感が不思議に薄れていったあの日のあの感じを、いまもはっきりと憶えている。
そうして、日々を紡いでもうすぐ4年になる。
優しい色で私を取り巻く自然にも、虫にも、猪にも、車の運転にもすっかり慣れた。
わたしの買い物は相変わらずエスポットがメインだ。嗜好品なども過不足なく手に入る、大好きなスーパーマーケットだ。
でも、時々、安寧を具現化した繭のような家の中にいても、海の底のような孤独に苛まれることがある。
そんな時は、普段行かないスーパーマーケットに行ってみる。
昼間なら、エーコープ。
深夜ならマックスバリュや伊東のメガドンキ。
普段行かないスーパーマーケットが、知らない街にきたような不思議な錯覚をわたしにもたらす。知らない街で、見たことのない食材や日用品を見つけるあの楽しさを、わたしに思い出させてくれる。
そうやって、牛乳やブロッコリーをカゴに入れながら、誰かと愛し合いたいと願って、叶わないまま逝ってしまった彼女のことや、わたし自身の愛について、ぽつりぽつりと考える。
いつの日か、食べること以外で生きている実感を得ることができるようになるだろうか、そんなことを思いながら、今夜もまた、わたしは夜のスーパーマーケットを徘徊する。
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孤独耐性が強く、自由を愛している。
時々掠める不安は、この自由の代償だと、眼差しに力を込めて夜を超えてゆく。
それでも。
時折、夜の底で、たまらない気持ちになることだってある。
生きている意味ってなんだろう。
でも、悲しんでくれる人と猫たちがいるうちは、そして、運命が「もう死んでもよい」というその日までは、食べて、生きなくてはと思う。
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