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ちいさい声で、ちいさなかなしみを。

もう1ヶ月以上、背中でドアがバタンと閉まる音を聞きつづけている。

あの日でなければ出張取材はもうできなかったな、あの日だったから友だちに会えたんだ。気になって訪ねたお店で「明日から休業します」と言われることがつづく。「あ、また背中でドアがしまったな」と思う。バタン。昨日までのあたりまえが消え、「またこんどね!」という言葉が喉でつまる。

そのうち「この間に休業した小売店の数」は、グラフに表現されるのかもしれない。でも、現実に起きていることはグラフに還元できない。ポイントの数だけある、一人ひとりの人生のかなしみを覚えておきたいとつくづく思う。ときには、歯を食いしばってでも。

3月末に、志村けんさんが亡くなってから、がくんと人の流れが減ったとレコード屋の友だちは言う。たいていのことにドデンと構えていた彼の、冴えない表情に心細くなる。注文していた本を取りに行くと、本屋の友だちは「のらりくらりいきましょう」と言う。「もともと借金抱えてるしね。あわててるのは維持したい現状がある人ですよ」。

リモートワークで在宅勤務しているけれど、子どもがいるから仕事にならないと嘆く友だち。感染する/させるかもしれない不安のなか仕事をつづける介護職の友だち……。実家でひとり暮らす高齢の父は、「デイサービスなくなって退屈だ」と言うけれど、いまは家族とてうっかり訪ねてはいけない。

わたしはといえば、いま、外に出て人と直接話すのは週に1回あるかどうか。対面取材も禁じられたし、ひとり暮らしをしていると「濃厚接触」の機会はほぼゼロだ。「安全」な暮らしができるのは恵まれている。けど、端的に言うととてもさびしい。おまえのことだと言われているようで、「不要不急」という言葉が突き刺さるように痛い。

「感染をくいとめる」という世界の共通課題を前に、連帯の輪がひろがるのかというと、そういうわけにもいかないらしい、と思っている。

「あなたはいいよね(家族がいて or 気楽なひとり暮らしで)」とか、「わたしはよかった(家があって or 大きな会社に勤めていて)」とか。経済基盤、仕事の内容、家族のかたち、もともと抱えてきた問題。「個別の事情」の違いばかりが浮き彫りになり、ピシピシ走る細かな亀裂が、視界を曇らせてしまう気がする。くちのなかが苦くなる感じ。

ともすれば、以前はなんてことのなかった「個別の事情」の違いまでも、分断のナイフになって関係性を切り裂いてしまう。「そうじゃないよね?」と思いながら、「もう、生き残り競争ははじまっているんです」という、うどん屋の大将の言葉がずしりと胸に乗っている。

そんな状況のなかで、分断を生まない言葉を紡ぐことはとても難しい。原稿を書いていると、言葉が萎んでからだから剥がれてしまいそうになる。だからこそ、この文章を書きはじめたのだけどーーなんとか息をととのえて、からだと言葉をつなぎなおすために。

いまは、ただただ、想像力を絶やさないように必死でもある。

ニュースを読む。今このとき、心身ともに疲弊しながら病院で働く人たちのこと、痛みと息苦しさにあえぐ、感染した人たちのことを考える。「安全」ではいられない暮らしをしている人たちのこと。「家にいよう」と言われても、その「家」が安全ではない人たちのこと。

そもそも「家」がない人たちのこと。いま、「安全」な暮らしをする人たちを支えている、お店の人たちのこと。配達や物流、交通を担ってくれている人たちのこと。野菜、海から揚げた魚、牧場の牛乳、わたしたちの命の糧をつくる人たちが、卸先がなくなって困っていること。誰もこない博物館や図書館を守る人たちのこと。ストレスに苦しみ、不安にかられて、他の人を傷つけてしまう人たちのこと……。

考えればきりがない。考えるほどに、どれほど多くのことに支えられて今この瞬間があるのか、と思う。なのに、わたしは「安全」なこの場所で、何をしているのかと浮き足立つ。いやいやいや、と自分をいさめる。家にいて、とにかく仕事をするのだと言い聞かせても、ときに自分を責めてしまう。

ずっと顔をふせたままで平泳ぎをしているみたい。水面に出ないと溺れちゃうのに、誰かに頭を押さえられて(いったい誰に?)。人気ない公園でそっとマスクを外して、映画で笑って、音楽を聴いて、息を吸い込む。それでも、ひとり考える日々には、ちいさなかなしみが積もっていく。

きっと、みんないろんなところで葛藤しているんだろな、と思う。

「今、何を感じているの?」「なんでもいいから話してみて?」と問いかけて、誰かのちいさい声をそっと聞いてみたい、書きとめたいと思う。そうしたら、わたしもすこしは呼吸をできるかもしれない。


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