歴史を学ぶ楽しさと寂しさ
この頃、歴史、特に日本史に関する本をよく読んでいる。
小中高と歴史は苦手な科目で、人生の中でここまで歴史に興味を持つことがなかったので自分のことながら少々驚いている。
昔ある人が、ある程度の年齢(確か三十歳くらいといっていた)になると誰でも歴史に興味を持つ、と話していた。
歴史は、経験を通して人間や社会への理解がそれなりに蓄積されてこそ、その面白さがわかるというのはその通りだと思う。
僕の場合、十代から二十代前半は特に、人間や社会への興味というよりも、それ以前の「世界の在り方」みたいなことに関心があった。だから当時よく読んでいたのは哲学の本だ。
そしてそれは好奇心というほど気楽なものではなく、もっと鋭利な、絶望と結び付いた関心でもあった。
僕はそもそも「人間である」ということを受け入れることに躓いていた。
歴史というのは基本的には「人間」を前提にしていると思うが、僕はその地点に立つことができなかった。
哲学者の永井均が「<子供>のための哲学」で、「哲学とは、他の人が上げ底など見ないところにそれを見てしまった者が、自分自身を納得させるためにそれを埋めていこうとする努力なのである」といっている。そして本人にとってその問いが解消された時、「はじめてふつうの人(そんな問題ははじめから持たなかった人)と同じスタートラインに立てる」と。
僕は二十代も終わりになってようやく「上げ底」を埋めることに成功し、歴史を学ぶことができる地点に立てた、ということかもしれない。
徐々に自分が「ふつうの人」に近付いているのを感じる。
歴史を学ぶ楽しさを味わいながらも、ふと手放しつつあるものへの寂しさがよぎる。