体験に基づかない本当のことを書く 2024/09/22週
noteの記事を書いていて自分なりに気づいたことを書いてみようと思う。
近ごろはフィクションというか体験に基づかない考えに任せたエッセイというかそういうものを自覚的に書いていて、結構自分でも楽しんで書けていると思う。
2022年に毎週noteを書いていたときは今より書くのがずっとつらかった。つらいというか何と言うか、自分の頭の働かせ方としてのネタを探すモードに付き合うのに疲れていたということかもしれない。
自分が気に入るようなネタを探さないと書けないなら、書くまでの時間はそういうネタ探しの時間ということになる。
週の大半を何か書けるものがないかということを考えながら生活していた気がする。ほとんど無意識のレベルで書くネタをつくるためにいつもと違う場所に行ったり、生活に何かしら変化をつけようとしていた。
それがダメだったかというと、そういう話ではなくて、そうしたから書けたものがあったし、今の自分が読んでもなかなか面白い事書いてるなと思ったりはする。(別の話で、自分の書いたものが自分にとって面白い、ということ自体は厄介なことでもある。。)
ただそれを続けることは私には難しかった。
あと書くネタを思いついたら、それが書けるかどうかということも自分にのしかかってくる。そんなのどう書いたらいいんだろう、というプレッシャーで、書くこと自体に気後れもしてしまう。
ここで前提としているところのネタというのは、ある意味で自分の体験に基づくネタということでもあった。
そして、それがなくてもできる書き方があるだろう、ということはずっと考えていた。このずっと、というのは10年前くらいに何とか自分で小説を仕上げてみようとして、思うようにはならなかったときからの期間ということになる。
そこで明確に私に課題として突きつけられたのは本当にシンプルなことで、自分の体験に直接に基づかないことが書けない、ということだった。自分が思っているところの事実によりかかってしか何かを書くことができなかった。
いや、書けはするけど、嘘くささを感じてしまうというか、体験に基づかないことを本当のことだと思うことができなかった。
フィクションなんだから当然じゃんと思う方もいると思うけど、私はその当然に許可を出すことができなかった。それではフィクションは立ち上がらないということはわかっていたけど、どうしていいかがわからなかった。
私にとってのフィクションというのは、体験に基づかずに自分にとっての本当のことを書くということだった。
さて、そういうことを考えていた私がどうやってフィクションぽいものを書けるようになったか。違うな。書くことを許可できるようになったか。
まず思いつくのは、自分が思い出して書くこともある種のフィクションじゃないかという風に前提を少し変更できるようになってきたこと。(物自体とか現実界とかそういうめんどい話は置いといて)人と話をしながら、俺って結構いい加減なものの覚え方してんな、ということ自体を知ることができたのがおおきい。
ただこれだけだと"体験に基づかない"にアプローチできない。
それに関わるだろう、と思うことがあといくつかある。
ひとつめは私の体験からスタートしてもそれを「彼は」という三人称で"書いてしまう"。思い出しをしている限りは、それを「彼は」と書いても問題ないと思えるようになったのは上で書いた前提の変化があったからで、一旦「彼は」と書いてしまうことで、自分の体験に基づかないことも書いていいだろうという気がしてくる。スタートが自分の体験だからだろうか。本当に不思議なことだ。これは先人の知恵でもある。
(このことを深堀って書くのはまた別の機会にする。私は小説で使われる三人称についての理解が浅かった。皆んな私が思っていたのより"いい加減"に三人称を運用していた。。)
もうひとつは、友人たちとの会話。自分がローカルな感覚だと思って言葉にしてみたことが案外他人にとっても通じる、という幸せな経験を積み重ねさせてもらっていること。
そういう経験を通じて自分以外の人物を、自分が書いてもいいだろうという体感を得てきているんだと思う。
疲れていい加減な書き方になってきたからそろそろやめようと思う。
友人についてのエピソードをひとつ書いて仕舞いにする。
イラストレーターの友人が、(10数年だったか絵をかいてきて)ようやく自分が思うような単なる真っ直ぐの線をかけるようになって嬉しい、と話してくれたその時は意味がわかってないけど印象に残っていた。
それはもちろん技術面での習熟もあるだろうけど同時に、フリーハンドで描いたその線が自分にとって真っ直ぐだと感じられるか、ということも課題だったのだろうと仕事帰りの夜道に気づいたことがあった。
たぶん友人にも私が気づいたような時間の積み重ねがあったんだと思う。
これを真っ直ぐな線とすることを私は私に赦そう。