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そう書いたから 2024/08/18週

実家のそばの海沿いの旧国道のことで、これを書いている今それほど思い出せる記憶がないことにもどかしい感じがする。すぐに取り出せるような思い出せる記憶がないことは、人に話したり文章にしたりしたことがないということだったり、誰にも話せなかったり、話すことの意味を見つけられなかった、ということでもある。

前にnoteに書いた旅館が実家の彼と中学の終わりくらいから高校のはじめくらいまでだったと思うけど、夜に一緒に海沿いをランニングをしていた。彼が海沿いの旧国道から坂をのぼってうちに迎えにきてくれていたと思う。そう書いてみると、彼がこない日はランニングはしなかったかもしれない、という気がしてくる。実際のところどうだったか覚束ない。

ランニングの道のりは市街に向かう方向とは逆方向で、私たちが、というより僕たちが通っていた中学校に向かう道のりだった。彼がのぼってきた坂を一緒に駆け下りているうちに、ゆるいアーチの砂浜と海岸沿いの家並みとその明かりでぼんやり反射した海面が見えてくる。水平線にイカ釣り漁船の灯りが見えることもあった。月が海の上にぽっかり浮かんでいる夜もあっただろう。

その浜の際に並んだ家屋沿いの道路は歩道なんて気の利いたものはなかったから並走せずに縦になって走っていたと思う。僕はそんなに足が速くなくて彼は割と速い方だったから、たぶん彼ははじめは僕の様子を見ながら、そのうちに僕の様子は見ないでペースを調節して走るようになった。

彼が坂をのぼってきたり、ペースを調整していたことをそのころの僕は知らなかっただろうか。ペースの調整のことは自分の足の遅さの自覚でわかっていた気がする。彼が坂をのぼってきたことは意識したことがなかったんじゃないか。彼が坂をのぼっていくとき、自分が走ってきた道が物理的には崖越しに見えている。僕はその崖越しに帰り道で一緒だった彼が海沿いのガードレールに沿って歩いているのを見ていたから、崖の切通しの暗がりの方に歩いている彼のイメージが浮かぶ。彼が自分の帰り道の方を眺めて自分の背中を見ていたと余り思えない。まだ私は自分の背中を見たことがない。

砂浜の端まで走ると、海面に丸太が並んでいる貯木場の側を走った。貯木場の匂いは本当に独特で、あれに似た匂いを余所で嗅いだことがない。だから余所でもし海の貯木場に似た匂いを嗅ぐことがあったら私は、あっ、海の貯木場の匂いだ、と思ってそう口にするかもしれない。そういう経験がある人以外には通じないだろうと思う。それを口にした瞬間きっと貯木場のあたりの眺めを思い出して、その側を走っているふたりのことを思い出す。月のあかりで青白くなったテトラポットや砂浜のでこぼこや潮のにおいも一緒に感じることになる。何でそれを夜として思い出すんだろう。そう書いたから、としか言いようがない。

その貯木場を通り過ぎたあたりか、その先に中学校のある緩くて長い坂の裾の手前で折り返していた。気分が乗れば折り返したあと貯木場のあたりは走っていたかもしれないけど、大概はふたりで歩いて話して帰って気がする。同じ方向を向いて歩いていた。部活もクラスも違うふたりにどんな話題があっただろうか。帰り道が楽しくて、その時間がなければ習慣にはならなかっただろうと思う。

彼にとってそれがどんな記憶だったか聞いてみたい。でもその前に言うことがある。どうしてた?

少しずつでも自分なりに考えをすすめて行きたいと思っています。 サポートしていただいたら他の方をサポートすると思います。