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フィクションだとわかっていても 2024/10/20週

 彼は随分前のnoteの投稿で、当時SNSでたまに見かけていた「友人が◯◯した」「友人が△△と言ったのを覚えている」という話法というか書き方について扱ったことがある。
 その記事で彼は、これはこの書き手自身について書いたものだろうと感じたことがあるのと同時に、その話法を使うことによって自分なりの書くスペースというか構えみたいなものを確保しているのかもしれない、ということを書いた。

 極端な言い方をしてしまえば「私が」と書く度胸がない、という話にはなるのかもしれないないし、彼はそこまで言わないまでも素朴にそれは嘘だよな、とどこか咎めるような気持ちがあったものの、文章を書き連ねていくうちに、そういうことがフィクションを立ち上げるときには必要なのかもしれない、その話法が書くことの抵抗感をかいくぐるための工夫とも捉えられると思うようになっていた。

 そこで彼はなかなか面白い課題を持ち出している。
 なるほど、その話法の形式は確かにフィクションを立ち上げるときに有用かもしれないが、「友人が」という書き方をしたことによって読み手に嘘くささ、作り話っぽさを感じさせる契機になっている面もあるだろう、その嘘くささのラベルを書き手自身が消去することができるのだろうか、と。

 彼は後々に自分でもそういう書き方を引き受けて書き物をするようになってから、その課題は話法の形式と書き手自身の書き方には少なくとも完全には還元することができないだろうと思うようになった。

「たとえばおれらが小説を読むときって、小説を読むぞ、って構えがあって小説を読むんだよね。舞台を見に行ったら、そこで起こることをそのまま現実の出来事とは引き受けたりはしない。
話してて思い出したのが、ベイトソンの本にもそういう話が扱われてて、コンテクストマーカーって、それを小説として舞台として受容する仕掛けが社会には埋め込まれている、みたいな話。」

 彼は出張先でたまたま合流できた少し歳の離れた友人と高架下の焼き鳥屋で話しはじめた。自分の話していることが相手に伝わるかという心細さが、固有名を出すような話し方をさせていた。

 10席もない小さなコの字のカウンターの店で、彼は友人の方に体をよじって、電車が通るときだったり隣のサラリーマンの声のトーンにあわせて自分もボリュームを調節していた。
 歳の離れた友人は自分のコップに瓶ビールをつぎながら、頭を少し右側に傾けて耳を高くするようにして彼の話を聴いているように見えた。

「ぼくの地元の祭りなんですが、タカさんの話と合ってるかわかんないんですが、あの、うちの地元の神楽って結構お話調というか、お囃子がマイクつけて説明口調のナレーションいれたりするタイプのやつで」

 電車が通りかかって、友人は少し声を大きくしながら話を続けた。
「で、神話の神さまだったりお侍が鬼を退治するんです。その演目の中に印象に残ってるのがあって。えー、あの、法師とそのお供みたいな連中が旅先で女に化けた狐の鬼に出会うんですね。
結構コメディというか、そのお供が鬼から逃げ回るんです。走ったり、棒に登ったり、舞台から降りて隠れたりして。で、それ追っかけて鬼も舞台から降りて、舞台を見てる小さい子どもを、ほんとちっちゃい子どもを抱えて持ってっちゃうんです。」
「話自体はそういう意味で話してたけど、特殊なタイプのやつだね」
 彼は自分の出した声が意図せずに大きくなりすぎているのに驚いた。

「ちっちゃかったときはその演目がはじまると、逃げたくなったりするんです。でも、そこから少し離れてもやっぱり鬼がこっちに来るような気がして怖いんです。逃げたら余計に怖いって気づいたから、頑張ってその場にいることにしたんですが、目を逸らしたりすると」
「鬼に見つかる感じがする」
「そう、でも神楽を見に行くんです。行かないとか考えたことがなかったですね。」
「フィクションだってわかっていたとしても、ってことだ」

 友人が笑っていた。「そうそう、そういうことです」

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heno
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