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友人が、と言う勿れ、と言う勿れ
友人がこれこれした、
友人がこう言ったのが記憶に残っている、
等の言い様から、これは言った通りの友人の話ではなく、自分のこと、考えたことだなというのがわかるときがある。
それを咎めるような気持ちも自分の中にあるような気がするものの、同時に自分もまたそういった話し方をしたくなったことがあるし、実際にしたことがあるような気もしてくる。
友人が、
素朴にいえば、自分の経験として話すのが憚れること、友人の言ったことと仮託して、話を客観的なものにして補強する意味あいがあるだろうか。
どちらの場合でも共通しているのは、ある話題を話すことそれ自体につきまとう抵抗感を友人が、という語り方でかいくぐろうとする、そうまでしても語りださずにはいられないという内面の動き(切迫?)といえる。
さて、ここから取り出せるポイントが2つ。
ひとつは、友人が、という語り方の形式そのもの。
友人が、というところのこの友人は実際の人物には対応しない存在しない人である場合か、もしくは実際の人物には対応するものの想定される聞き手にその存在の有無が確認されようがないと思われる存在する人。
どちらの場合でもそれは中身のない形式的な人、ひいては形式そのものである。(後者は語り手にとって実体を伴うけど、語りの内容には関わりがない)
この形式がある種の語りそのものを可能にしている。
更にいえば、この形式は物語やフィクションの発生契機(の少なくともひとつ)であるだろうし、同時にその語りに嘘くささのタグをつけていく。
正直これは自分の手に余る話題だと思う。
けど、これからも考えつづけてみたいのは、その形式によって副次的についてしまったタグを語り手は消し去ることはできるのかということ。消し去らないまでも考えないでいられるようにできるのか。
それはどういうやり方なのか。
(聞き手はこのタグの存在に気づくことがある。タグは目に見えないー服の裏についているのに。)
もうひとつは、そういった形式を使ってまで語らずにはいられない切迫。
Twitterとかでも、友人がこう言ったのが記憶に残っていると書いてあるのをよく見かける。
別に自分で大事にしていることだって素直に書けばいいじゃんと思わないでもない。
でも、そう語られる必要があると、語り手は感じている。
この記事はあとで書き足したり書き直すかもしれない。
時間も遅くなってきたし、いつもどおり雑な筋トレして寝る。
1/31追記
ところどころ水漏れしている文章だけどこれはこれで残す。
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