小休止 2022年5月8日週次投稿
GW休んだ週次投稿を再開。
GWの少し前くらいから書くのが難しいと思い始めていた。
自分でも何でそういう状態になったかははっきりはわからない。わからないなりに原因を考えてみると、どこかの時点で自分で面白いと思えていないことを続けていたのが関わっていたかもしれない。
そのひとつは読書で、半ば義務的に自分に本を読むことを課して習慣がつくれないかと思って2月~4月と過ごしてきた。それ自体は別に間違っていなかったような気がするけど、それによって自分で何かを考えてみるプロセスはおざなりになっていた気がする。途中から読書量が増えて過剰になっていたと思う。塩梅が難しい。
もうひとつ思いつくのは、いくつか書きたいと思いながらも面倒で書いていない内容があったこと。面倒でも書いてみないことには自発的なプロセスが妨げられるところがあるのかもしれない。
自分の中で書けるかどうかわからないスレスレ感があることを書こうとすることそれ自体が、書くことを活気づけるのは何でだろう。ただ、あらかじめ書けると思っていたことでも実際に書いてみると割とそうでもない(面倒な)ことがある。
*
と、そんな状態で海に行ってみた。
普段は内陸部で生活しているけど、実家のすぐ近くが海だったというのもあってかたまに海が見たくなる。電車に乗って1時間半くらいで海について、辺りをしばらく散策した。
磯で適当な岩を見つけて窪みに腰をおちつける。リュックの横の部分のネットに入れていたペットボトルの水を飲んで、海面よりすこしだけ青が濃くなった水平線をみたり、波が岩に打ちつけて空気を含んで逆に薄くなった青緑をながめる。
ーおれのカバンどこやったんだよ。
と中学生くらいの男の子が他の子たちにがなっている。こういうノリあったよな、と懐かしいような、ちょっとかわいそうなで周りにカバンが落ちていないか見回すような自分の素振りがあったかもしれない。
その子はそのうちにカバンを見つけて、また友だちと一緒に賑やかにしていた。そういうときは絶対にカバンはあるとわかっていても心細い。カバンを身に着けていた自分がいて、それがなくなった自分のイメージばかりが意識される。磯の岩の隙間を友だちと順番に飛び越えたり、水際のギリギリで岩にしがみついて波飛沫が体にかかっていたときにも、カバンは思っているのと違う場所にあっただろう。
こういうことをたわいもない出来事だとすることにも少しの抵抗の気配を感じるのは以前からそうだっただろうか。それが深刻な場面であるかどうかを見分ける感性は自分にあって欲しいと思う。ただこの場合に厄介なのは、深刻でなければいいのかという声(?)の方かもしれない。
子どものころ怪我をして泣いていると、祖母はそっから大きくなるわあね、とよく言っていた。両親は泣いても意味ない、と言っていた気がする。
こうして振り返ると結構違うことを言っている。
私は自分の子どもにそこから大きくなると言ったことがあっただろうか。それを言葉だけじゃなく自分の考えとしてそう言えるだろうか。言わないと身につかない言葉だってあるだろう。
そのうちに磯に少しずつ人が増えてくる。もうすこしでお昼になるか、と来た道を引き返した。
瓶ビールと大してうまくない刺し身を昼ごはんがわりにしてから、浜沿いを歩いていて、自分が過ごしていた海とは違う海ということにあらためて気づかされる。その当の地元の海でさえ、いざそこに行ってみれば今の自分にとってはそうでなくなっているのかもしれない。
いつも散歩している内陸部の眺めは自分で思っているよりずっと自分を構成している。
少しずつでも自分なりに考えをすすめて行きたいと思っています。 サポートしていただいたら他の方をサポートすると思います。