道徳の地質学を読む1
ドゥルーズ『千のプラトー』のプラトー(≒章)のひとつ「道徳の地質学」の読書メモを少しずつしてみようと思う。
この章は単にパラパラ読んでいるだけだとうまく理解がすすみそうになかったし、誰かに読んでもらう構えで書いて―書いてあることを自分なりに読み替えたり展開して―何かしら取っ付きを設定してみたかった。
とは言うものの、誰かに何かを伝えようとするときの自分のフォーマットは、この文章はこれこれこういうことが書いてあって、この部分部分はこういう繋がりがあって、みたいな全体先取り的にその読み方を提示するものになりがちで、今回の読み進めるというやりたいこととアンマッチな感じがする。
全体を伝えられるわけではないものの、誰かに何かを伝えるというのにどういう書き方ができるだろう。
そもそも誰かに伝えるというときに何かしら頭が動くとしたら、その誰かが誰かということなしに考えることは少なくとも自分にはできない。同僚に、友人に、家族に、というのでも十分ではない。その話題を話してみたいと思う特定の誰かが、特定の場面がこれから読み進める文章の部分と繋がることがあるかもしれない。そういうつもりで書くことにする。
そういえばこの文章も以下のように書き始められる。
どういうわけかはさておき、コナン・ドイルの作品内の登場人物のチャレンジャー教授が聴衆に向けて講演を行うという設定でこの文章は書かれる。
チャレンジャー教授がどういう人物かとりあえずwikiで確認をしてみたら、以下のような記述だった。
道徳の地質学の中でチャレンジャー教授は様々な分野の専門家たち―地質学、生物学、言語学の史上の実在の人物を含む聴衆―に話をすすめるうちに、「大部分の聴衆が席を立っていた」ということになる。
そんな状況の中でも彼は話し続けることをやめず、「彼が夢見ていたのは、人間相手に講演をすることなんかより、ただのコンピュータにプログラムを提供することだった。・・・チャレンジャーはもう記憶装置に向かってしか語りかけない」
私が仮に設定した書き方も記憶装置に向かってのものだろうか。
頭の中の誰かに向かって話しかけようとすることは、ただのコンピュータにプログラムを提供することだろうか。
メモをとっていくうちにそのことも考えられるようになるかもしれない。