書くことで見えるものは変えられるか ー振動尺
この記事は前回記事の続きです。
ある彫刻家の書いた本の読解を中心に扱いながら、そこで得られた気づきを趣味の散歩やnoteでの記述に活かすことができないか、ということを引き続き考えていく。
前回から取り上げたキーワードとなる概念ー振動尺、本当は前の記事で現時点で考えていたことは全部書いてしまうつもりだったけど、疲れて、続きになってしまっていました。
恐縮しつつ、その概念に関わる彫刻家の記述を再び引用。
(適当に読み飛ばしてもらって大丈夫です。)
前回記事では、謎めいた概念ー振動尺を考えるために、彫刻家がそのヒントにした手法ー重ね描きの説明にかえて個人的な記憶も参照しながら、その手法がもつモチーフを仮説的に設定してみた。
それは彫刻家が、重ね描きを同一画面上に複数の断面、系列、動きを共存させる具体的な方法と見なせないかと考えていた、というもの。
上記の引用で、彫刻家は振動尺についての記述を明確にはしていない。それの具体的な適用事例として石灰岩の山と私の間にある空間を観察する記述があるだけである。
間にある空間を観察する?
なるほど、たしかに私から遠くの見渡しの一部となっている山を見れば、その間を隔てている空間があり、そこを満たしている何かが存在する。
では単純にそれを観察、制作に反映させるとしたらどうだろう。
(単純、というのも逆に難しいけど、仮に。※)
そこには山があり、またその周辺としての眺めが書―描かれるものとなり、結果としての記述や制作物は単独では(そして一次的には)、鑑賞者から距離を隔てられた山を中心とした風景に対して、何かしらを感じ取るという意味―表面をもったものとしてできあがることになる。
でもそれでは鑑賞者に私と山との間の空間を感じ取らせることにはならない。
そこで彫刻家は、その空間を無数の重ね描きと捉えることで、制作物に間の空間の具体的な表れを与えることを振動尺という言葉に託して目指している。
重ね描きによる複数断面の共存、その断面を無数にすること。
この無数ということの扱いが、振動尺をオカルトにも捉えさせ兼ねないデリケートなものにするという意識が、「無数は比喩」「間の空間には私と山の表面が両方そこに含まれるという矛盾」という記述から読み取れるように思える。
制作物に無数のものは表現されえないが、空間の厚みをできるだけ定着させたい。
彫刻家が、素朴ともとれるこういった態度を振動尺という言葉で考えようとしたのは、
まずは、制作物とその表面が鑑賞者やそれを制作している自分をひとつの断面に抑圧することを明確に拒否して、表面を複数断面として厚みを与えるということ、
同時に、その概念が要求している行為のモデルを自分に課したい、
という2つの実際的な効果を求めていたのではないか。
より実践的な後者の行為のモデルはどういったものか、その過程はある風景にどう重ね描かれていくか。
というところで今日はお終い。
次は振動尺を自分の趣味の散歩に適用させるとしたら、ということを書いてみようと思う。
*
この続きの記事を書き始めるときは全く軽い気持ちで、こんなに自分に美術に関する諸々の不理解を自覚させることになるとは思ってなかった。。
知ってたらもっとキチンと、立体的に色々書けるんだろうな、と思うと、読んで頂く方や若林奮に申し訳ない気持ちもあったりします。
でも私はキチンと知っていたらそれはそれで書けないような気もするから、書くの難しい、ということを改めて思わされます。
ではでは
少しずつでも自分なりに考えをすすめて行きたいと思っています。 サポートしていただいたら他の方をサポートすると思います。