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レン愛?(ティアララ)ルン愛じゃ、ダメかしら?〜『阿佐ヶ谷姉妹ののほほんふたり暮らし』感想〜

 こんにちは、返却期限です。
 今回は、楽しんで視聴したドラマのことを書きます。

長寿番組のホームコメディがつらい

 子どもの頃から親しんできて、今も放送しているアニメがいくつかあります。そのほとんどがホームコメディ、「自分と家族とゆかいなご近所さんたち」的なものです。不完全で人間くさい人たちが織りなす、明るく朗らかで、あたたかな優しさの感じられる作品たち。庶民的で、多くの人たちに愛されるご長寿番組です。『サザエさん』『ちびまる子ちゃん』『クレヨンしんちゃん』……SF・ファンタジー要素もオッケーならば、『ドラえもん』『おじゃる丸』。

 ただ、もう結構長いこと、私はそれらの番組が見られていません。いや、たまに見ることはあるのですが、心から楽しめなくなってしまったというか……。

 私のポジションは、『おじゃる丸』でいうところの「うすいさちよ、28さい、独身さま〜」に近いです。仕事が不安定な独身女性。別に恋の予感もなければ、もっと歳上なので、「更に悲惨なキャラクター」かもしれません。幸が薄いどころではありませんね。不幸とされているのかも。

 ホームドラマ(コメディ)はいつの間にか、自己の似姿を見つけられなかったり、見つけてもモヤモヤしてしまったりするものになってしまいました。

 そんな私が、「ああ、久しぶりにホームドラマを楽しめた」と思えた作品が『阿佐ヶ谷姉妹ののほほんふたり暮らし』でした。アニメではなくてドラマですけれど。

幸せに「なってほしい」と言うけれど

 このドラマは、芸人コンビ・阿佐ヶ谷姉妹のお二人が執筆されたエッセイを原作としたものです。エッセイがドラマになるわけですし、本人たちが演じるわけでもないですから、当然別物ではあるのですが、原作の尊重の仕方がとても丁寧に感じます。

 私はそもそも、お笑いに疎くて、阿佐ヶ谷姉妹のことをよく知りませんでした。「上手に歌って、派手なピンクのドレスを着て、地味ながらちょっぴり毒のあるネタをやる、血の繋がりは定かではない女性二人組」くらいのぼんやりイメージでした。

 ドラマを見、原作も読み、疑似姉妹であると判明したお二人のゆるやかな仲の良さに、私は驚きました。六畳一間に独身二人で何年も同居しており、今では別居しているものの、おとなり同士で暮らしているとのこと。仲良しの二人組、とりわけ恋愛関係ではない二人のエピソードが大好物の私にはたまらないやつです。

 とてもすてきな関係性だと思うのですが、ドラマ内でおそらく「世間の目」代表としての役割を担う、「ミホさんの母」(ミホさんは阿佐ヶ谷姉妹の「妹」の方です)は眉根を寄せます。冒頭に書いたことに関連付けるなら、娘が「うすいさちよ」では困る、というわけです。生き方が不自然で恥ずかしくて、母としては不安なのです。「幸薄い」状態から、「幸せ」になってほしいのです。

 この「ミホさんの母」に向き合う第4話のクライマックス、ミホさんは実の母に、おずおずとこう言います。

「幸せになってほしいって言うけど、私、今が幸せだから」

NHK『阿佐ヶ谷姉妹ののほほんふたり暮らし』
(4)「他人です、実の他人です」より

 このシーンがとても印象的でした。「未婚」と「不幸」を等号で結ぶ、もしくは「結婚・出産」を目指さないことを「未熟」とする風潮に「それは失礼ですよ」と、ドラマスタッフが言ってくれた気がして嬉しかったです。

バリエーション豊かな「ホーム」を……!

 このドラマを見ていて、「家庭」について考えたくなり、南野忠晴さんの『正しいパンツのたたみ方:新しい家庭科勉強法』(岩波ジュニア新書)などを読んでみました。

 日本においては一般的に、家族は「核家族」と「拡大家族」しか存在しないことになっています。けれども、世界に目を向ければ、多種多様な「家族」の姿があるんですよ、という話から、

 国連の家族に関する定義を非常にわかりやすく表現している人がいたのです。それは、「その人が家族だと考える人が、その人にとっての家族である」というものです。

『正しいパンツのたたみ方:新しい家庭科勉強法』(南野忠晴)
p.63より

 という部分に至ります。
 そういった南野先生の授業を受けた生徒から、こんな声が上がります。

一緒に生きていこうと思うのが家族なんと違うかなあ。

『正しいパンツのたたみ方:新しい家庭科勉強法』(南野忠晴)
p.71より

 「家族」とは、「その人が家族だと考える人」や「一緒に生きていこうと思う」人。血縁がつらくて「家族」と思いたくない人も、ペットを「家族ではない」と言われて憤慨した経験のある人にも、救いとなる定義ではないでしょうか。エリコさんミホさん姉妹はお互いがこの定義に当てはまるでしょうし、もう少し拡大して捉えてもいいのかもしれません。

 というのも、ドラマのラストで明かされるミホさんの夢、「阿佐ヶ谷ハイム」構想(アパートを買い取って、親や友人、その他の親しい人たちと共に暮らすこと)は、大きな「家族」「家庭」の在り方だと思うのです。インタビューなどでも度々語られていますが、介護や子育てだって、これならできる範囲で支えあえるのでは、という考えで、それは「自己責任」「自助努力」と突き放される世の中に抵抗し得る、共生的な「自立」のあり方ではないでしょうか。そしてそれが「ホーム」の一形態となれば、もっともっと、私が楽しめる「ホームコメディ」が増えると思います。

男ふたりで「のほほん」もいいじゃない

 このnoteはもともと、いとうせいこうさんとみうらじゅんさんのラジオに参加するため(ひいてはお二人の見仏旅行を応援するため)に始めたものです。彼らが昔から頭を悩ませている問題を、ここで思い出します。それは、「女ふたり旅と比べて、男ふたり旅は、より同性愛者だと決めつけられやすい」ということ。これは「女ふたり暮らしと比べて、男ふたり暮らしは」と読み替えても成立するかもしれません。

 阿佐ヶ谷姉妹は女性ですし、疑似ではありますが「姉妹」を名乗り、仕事の「相方」同士である、と、周囲が「性的な関係ではないのね」と納得しやすい手札を多く持っています。

 では、そういった手札がなく、なおかつ男同士だったら?

 私は林史也先生の『煙たい話』(Pixiv版)(コミソル版)を思い出しました。男ふたりの同居、恋人同士ではないんだけど……。簡単にラベリングできない互いの関係に悩んだり、周囲の人達と交流したりしながら、ふたりで話し合い暮らしていくその様は、これも「家族として当然承認される枠」を考えさせられるものです。

 話をいとうさんとみうらさんに戻して、もう少し気楽な話をします。お二人は以前、ラジオで「もう、隣に住みたい。なにか面白いことを思いついたらベランダに出てきて一緒に喋ろう。最高の老後だと思う」みたいなことを仰っていました。ご家族ご近所にずいぶん迷惑な仲良しぶりだな!と爆笑したのですが、これは今回話題にしているドラマのラストシーン、おとなり同士、窓から身を乗り出して語らい、歌う姉妹と重なる部分があるなと思います。「夢」という部分も含めて。

 寝起きする場所を共有し、ふたりきりで過ごしたら、なぜか「二人の間に性的同意があった」とされがちな世の中です。どんな性のあり方の人がそう過ごしても、余計な意味を付けられず、「のほほん」と過ごせるといいんですけどね。恋愛関係じゃなくても、「ティアララルン♪」と隣で朗らかに歌える関係の人との愛、ダメじゃないはず。

 などと考えていたら、次の「よるドラ」枠の作品はアロマンティック・アセクシュアルの二人を描くようですね。こちらも気になります。 

エリコやミホではないワタシなので

 ここまで書いてきて、なんだか恋愛・結婚・出産を否定するような物言いになってしまっているかもしれませんが、そんなつもりはないのです。法律を見直す機会などはあったほうがいいと思いますが、今上手く行っている人はそのままでいいと思います。

 また、冒頭に出てきた長寿番組も、悪者扱いしているわけではないのです。長谷川町子先生も、さくらももこ先生も、藤子・F・不二雄先生も、臼井儀人先生も、犬丸りん先生も、みなさん鬼籍に入られてしまいました。原作・原案者不在の中、その時代に相応しいかたちで作品の良さを伝えていくことは大変困難だと思います。それでもスタッフが力を合わせて番組を支えておられることには頭が下がります。

 ただ、また新しいかたちの、「国民的ホームコメディ」が早く生まれてこないかなと願うのです。私が「のほほん」と見られるような、ね。

 ともあれ、私は阿佐ヶ谷姉妹のような才能もコミュニケーション能力もなく、ご近所付き合いらしいご近所付き合いはハードルが高いです。まずは一人でのんびりとご近所を散歩しがら、猫でも探しにキョロキョロ見て回るところから始めようかしら。鼻歌は、ティアララルン♪

※記事の初出時、林史也先生のお名前の漢字を、間違えて表記しておりました。たいへん失礼いたしました。深くお詫びし、訂正いたします。

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