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【小説】『姦淫の罪、その罰と地獄』地獄ノ三(5/5)

 明治時代の新米密偵、楠原と田添の一年間。

(文字数:約2500文字)


 私学の教科棟の長い廊下を歩き出した途端、
「おい!」
 と声を掛けられ空き教室へと引きずり込まれた。力任せに引かれたとんびが、どこか裂けた音がして、その音がまた不快に響いて、目を向けた相手は名前を思い出せない。ただ白里翁の屋敷で見ていた顔だとしか。
「あの女が、逃げたぞ」
 聞こえて来る言葉が、音だけはなぞれるのに意味を持って伝わってこない。
「にげ、た……?」
「ああ。お前、厄介な事になったぞ。あの女が他所でしゃべり回ったら、どうしてくれる?」
「しゃべりやしないよ。アイツ……」
「なぜ言い切れる」
「なぜって……」
 教室は軒先なんかの陰に入っていて、昼間だってのに暗くて、詰め寄せてくるソイツの表情も、窓に背を向けた逆光になって、よく見えない。
「お前、事態を飲み込めていないんじゃないのか? お前は、逃げられたんだ。利用されて、何ならずっと騙されていたんだぞ?」
「ちがうよ……」
 利用とか騙されるとか、俺にはどっちかって言うと向きが逆だ。春駒だけじゃなく、ずっと、誰に対しても。
「とにかくもう、俺たちはお前を仲間とは、思いたくない。活動めいた事がしたいのなら、他所に行ってくれ」
 最後に忌々しげに両肩を、突き飛ばされて、後ずさった背中を机の寄せ集まりに、強かにぶつけたけど、出て行ったソイツは目にしてもいなかった。逃げた、って言葉にそれでようやく、意味が入って、
 痛いってだけじゃなくその場に、机の脚に囲まれた内側に、へたり込んで、
「なんでぇ……?」
 漏れ出てくる声が我ながら、ガキみたいに弱々しくて腹が立つ。なんでって、分かってんだろ。嫌だったからだよ本音では。俺の事もあの屋敷も何もかも。
「ちがっ……、ちがうよぉ……。アイツ、オレの事好きだって……、離れたくないってアイツの方から、言ってくれたから……。だからオレ……」
 おいおい。相手は非力なガキだろうが。
 俺より背も低い、手も足も小さい、か弱い女の子が、大人の男から言い寄られて全力で、抵抗できるとでも思ったのか?
「い……嫌だ……」
 愛されたがってる奴みたいに、田添から言われた事を思い出した。あの時は、ピンとこなくて、俺はそんなつもりないって、言い返すよりも田添の話に気を向けて。
 飯食わせてもらって、行く当ても分からないまま連れ回されて、連れ込まれた部屋に二人っきりで、物欲しそうにじっとり眺め回されて、組み伏せられてその全部に、自分の気持ちなんか押し通せるって、自分の気持ちだけで跳ね返し切れるって、本気で信じていやがったのか?
「聞きたくない……。オレに、しゃべってこないで……」
 素人買いなんてたちが悪いって、姉さんからは言われてた。違う。姉さんの妹分だけど、今はそれ、どっちだっていい。
 嫌いだったんだ。演じてたんだよ。お前を気に入ってる、フリをしたんだ。
 ん。ちょっと待て。俺をお前呼ばわりしている、お前は一体誰なんだ? お前だって俺じゃないのか?
 逃げ出す機会を伺うために、必死になって、腹の底では気色が悪くて、今にも反吐を浴びせかけそうだったってのにな!
 聞こえてねぇか。
「助けて……」
 俺の、身体の方はさっきから、頭抱えてガクガク震えながら、うずくまっていて、俺はなんでかその姿を、少し離れた外側から、眺め切れている。ガキの頃の俺が逆らってくるって、今まで思ってたけど、なんだコイツらは二人いて、互いに憎み合っていて、
 ああ。そうか。コイツらからも今ここにいる俺は、見えていないのか。
「助けてよぉ……。誰か……、オレの話、声だけでも聞いてよぉ……」
 笑わせんなそんな奴、どこにもいるもんか!
 誰からも、俺は、見られたくなかったからだ。覚えられたくなかった。その方が、いつかあの野郎をぶちのめす時に、都合が良いから。

「分からないわ」

 ふっと、質の違うまた別の声が差し込んで来た。いつかの、静葉の言葉だ。

「私の人生で、他の誰かの人生は測れないし、そんなのは間違ってると思うわ」

 それを聞き終えたら俺は、うずくまっている身体の方に戻っていて、震えは止まったけど頭は抱え込んだままで、ぼんやり残っていた静葉の言葉をなんで残っているのかなって、不思議に思いながら口に乗せ始めた。
「俺の、人生で……」
 入ってきた角度こそ浅かったものの、その言葉は、身の内をねじれ曲がって貫き渡り、通りすがりの肉片を次々とこそぎ取るような、苦痛を残した。
 上げそうになる叫び声を、とっさに両の手で覆い尽くす。それがかえって打撃になった。声に出さなかった分が身を巡り、脳を掻き回す嵐となって、腐食が進んでいた頭蓋を弾き飛ばす。
 死んだ。脳が壊れたと、少なくともそこからしばらくの間、数分から十数分にかけては信じられた。そして信じられている間は真実になる。

 まつ毛が動く感覚があって、瞬きを、している事に気がついた。息が、止まっておらず心拍も、どうやら動き続けている。
 顔を、覆っていた両手を放して、その大きさに、指一本一本の太さや長さを改めて、意識した。親指から順に、折り曲げて人差し指中指、薬指と、小指に来て次は小指から、開いてみる。薬指中指、人差し指。
「ははっ」
 俺の指。俺の手だ。俺の、気持ちのまま俺が思ってみた通りに動かせる、俺の腕。それに身体。ようやく取り戻せた。
「あはははははははは」
 笑いが込み上げてきて止まらない。そりゃそうだ。これまであんな見たくもないもの、必死になって押し縮めていたんじゃな。
 日が傾き教室には窓からの薄赤みが差し込んでいた。じき夜になる。面白い。あの野郎のタマがどんだけ縮み上がるか楽しみだ。
「ふははははっ」
 頭に思い浮かんだ文言だけで笑い出してしまう。ただそれだけの接続が、これまでどれほど弱くか細かったことか。
 不能になるまで縮みやがれ。


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→ 地獄ノ四 敵を愛する

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