【小説】『姦淫の罪、その罰と地獄』罰ノ六(4.5/4.5)
明治時代の新米密偵、楠原と田添の一年間。
(文字数:約1000文字)
夕立くらいでは今夜の暑熱は鎮まらなかったようで、身を打つように降りしきる雨の中で我に返った。帽子も髪も服もずぶ濡れで、夏場とは言え冷えて身震いした事で、意識が戻ったみたいだ。
だけど……、オレ……、今どこにいるんだっけ……。
居酒屋で、呑んでたあたりから、覚えてない……。お金、払ったのかなきちんと。もしかして払ってなかったら、今からでもあやまりに、行かなきゃ……。
視界は薄ぼんやりした光の層に包まれて、顔を右に向けても、左に向けても、背後を振り返って見ても、暗くは感じない。
キレイだ……。
しばらくは、そう感じて笑みを浮かべて。
だけど、これが見えてるのって、オレだけなんだ。誰にどんだけ話したって、通じてもらえない。みんなの目には、あの、さっきまでのまっくらやみが、本当で、だから、えっとつまり、
オレは強くない。
「ふえ」
口を開けたら湧き出すみたいに涙と泣き声があふれ出たけど、雨に打たれててとっくに顔の全部が濡れてるし、周りに何でか誰もいないから、恥ずかしくないし。
強くないんだ。オレは。何にも出来ない。
「兄ちゃん……。にいちゃぁあん……」
どうして、一緒に泣けなかったんだろう。兄ちゃんが泣いてた時、あの時一緒に泣いてあげれてたら、今よりは、何かがもうちょっとくらいは、通じ合えてたのに。
「会いたいよぉ……。えぐ。あん時に……、もどりたいよぉオレぇ……」
男なんだから泣いてちゃダメだって、オレが泣くたびに、いっつも言われて、どうして一緒に泣かせてもらえなかったんだろう。
ドグッ、
と痛いくらいに胸の奥が、強く響いて、泣き声が止まった。
涙も引っ込んで首筋の、裏側にチリチリと嫌な感じがする。
振り向いて見た後ろには誰もいない。本当に、誰の姿も見えない。
本当に?
キュッと口を結んで前を向き、その路地からは離れる方向に歩き出した。雨に打たれながらでずぶ濡れで、歩きづらいけどそれでも、なるべく早くみたいにそこからは、遠ざかろうとして、
無駄だ
って内側から聞こえてくる笑い声は、全力で聞こえない事にした。
だって、もう、暗いのは嫌だ。
明るいものが見たい。内側からの、強い光でキラキラして、とてもじゃねぇけどかなわねぇみたいな、見てるだけでそれ見ていられるだけで、胸の中が透いて行くようなヤツ。
今頭に浮かんですぐにでも、会いに行けそうなヤツなんか、オレには一人二人くらいしか、思い当たらねぇけど。
→ 罰ノ七 指を咥える
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