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【小説】『姦淫の罪、その罰と地獄』罰ノ八(3/4)

 明治時代の新米密偵、楠原と田添の一年間。

(文字数:約2400文字)


「別人、だな。ありゃ」
「顔形は似ているみたいに、思えたんだが」
 いつもの居酒屋とはまた別の通りの別の店で、髪の色は覆い隠して座っていると、入って来た客たちが番台に座るなり語り始めた。
「官立の、それも相当良いとこのお坊ちゃんだ。着てるモン見りゃ分かる。いざ夜討ちに掛けちまって実は人違いでした、じゃ、ちょっと済まされねぇ」
「いつもくっ付いてるあの赤い髪の野郎は」
 徳利を出しながら店の主人も話に入ってきたが、予期しなかった事でもない。何せ月形組は規模が大きく、かつての構成員たちそれぞれが、今どんな職にありつけているかも分からない。
「ああ。アイツもなんだ、私学生だってよ」
「『官立とつるんでる私学生』だって、飲み屋界隈じゃちょろっと知られてら」
「珍しいだろ。怪しくないか」
「それがフツーに同郷のお友達らしい」
「こないだは赤髪の方が酔い潰れて、ぐっだぐだになったソイツに、肩貸しながら歩いてたってよ」
 聞いているうちに店の主人の目つきからは鋭さが消えた。 
「じゃあ、違うか」
「どこに隠されてたって一年かそこらで、友達みたいなもん、出来るわけねぇからなアレに」
 アレ、という一語に反応した耳を楠原は、そっと頬杖で包む。
「オヤジの返り血浴びて血まみれになってたって、眉の毛一本動かさなかった奴だぞ」
 自分の耳たぶに触れて頭に浮かんでくる景色には、なるべく引きずられないように注意する。
「声なんかは」
「それがなぁ。聞いたこたねぇんだよ。誰も」
「しゃべれないヤツだって、オヤジも猿とか犬みたいにして、飼い殺してるもんだとばかり思っていたからな」
 別人、だとこちらの側でも言い切りたいところだが、聞けば聞くほど月形禎一の話は、田添の顔形で思い浮かんでしまう。とは言え「ぞえちゃん」に人が殺せるとは思えないし、あくまでも「人前ではそう見せていた」姿だろう。
 田添は殺していない、と思う。しかし人が死ぬような現場には、居合わせ慣れている、気がする。
 夏場の業務で二人して、船に乗せられて川を進んでいた間、
(分からない)
 を打ってしまう度に返ってきた、
(受信)
 には申し訳無さそうな、川に沈められて亡くなった人たちを、悼むような色味が乗っていた。
(お前のせいでもないだろうに)
 とは思いながら、
(確かに引き上げ切れるもんならそうしてやんないと気の毒だよな)
 と目の前の業務に、意識を戻せたが。

 馴れとは実に恐ろしいものだと、静葉は思う。
 手すりを自分の手で掴む事はもちろん、階段そのものを僅かにでも目に入れる事さえ、嫌で嫌でたまらなかった中二階へと向かう事を、もう何事とも思わなくなってしまっている。
 廻し部屋、という名称は当事者には、意識に乗せる事すら厭わしい。
 いや。もうとにかく全てが厭だったのだ。良い話があると囁きかけてきたあの女衒も、吉原がどのような場所か本当は知っていただろう両親も、初見世の期間中は毎晩のように客を取らされる事も、あんな扱いに思いを、全て無かったフリで通させられる事も、
 騙されて鼻を伸ばしてこようが騙せずに腹を立てられ頬を張られようが、騙されてやるフリをして店には内密にしてやるから、などと的外れな脅しを掛けてこられようが、全てが、ただただ、厭だとしか。
 手すりを掴んで階段に、一段ずつ足を乗せ掛けながら、頭に浮かんでくるそうした事柄を振り払ってでも、先に上へと進まされてしまっている。ほんの数ヶ月前までは、それほど気にしてもいなかった、初めから、興味はあってもそこまでとも思っていなかった男が、所詮は客の一人が、上で待っていると言うだけで。
 小鈴にあんな手紙を握らせてきた事を、不快に思わないわけでもないのに。
 お駄賃代わりの飴玉付きで、小鈴は喜んでいたけれど、私への、問い掛けである事くらい分かっている。女将さんにも主人にも、これまでに全くいなかったわけでもない多少は気を許したお客様にも、店の女の子たちにも若い子たちにも、もちろん小鈴にだって何一つ、気付かせるわけにいかない。
 そうした人たち皆に、この先一生涯、裏切られたと嫌われて恨まれたままかもしれない。
 それでいて、先を約束してくれるような話でもなかった。大人しく年季が明けるまでを待った方が、どれだけ良いか分からない。ここを去って、それから身を寄せるらしい、その場所には、
 あの人はいない。
 そこを思い返すとクスッと、笑みがこぼれた。分かっている。初めから出来もしない事を、安請け合いするような人じゃない。
 あの人は花魁を手に入れたいわけじゃない。
 それにしても、ここを出たが最後二度と逢う事は無い、もしかして、顔を合わせる機会があったとしても、お互い見知らぬ同士ですれ違って、何か言葉を交わそうだなんて頭にも思い浮かべない方が良い、なんて、随分ときっぱり決め込んでくれたものだ。
 引き下がれやしないじゃない。あの人が気に入った、あの人が見てみたい私の姿に、私もこの先少しでも、近付きたいんだったら。
 上り切った先の廊下に面した襖を開けて、薄暗い部屋の角に立てられた、所々に染みも浮いた屏風の端から中を覗くと、
「よぉ、静葉」
 なんて、へらっと軽そうな笑みを浮かべながら言ってくる。
 物凄く、カンに障ったけれど屏風の内側に入り込んで、何一つ口になんか出せるわけが無いから、ただ正面に正座して両手を付いて、この上無く丁重に頭を下げた。
「うん。あんたは、そうすると思った」
 なんて、私に決めさせるフリをして、この先一生逢えなくなる悲しさを、隠してもいない声で言ってきた。
 非道い人ね、
 って顔を上げて、今流れている涙を見せながら言ってやりたかったけど、絶対に間違っているからやめておいた。


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