円空展with僧侶
はじめましての人も、
前から知ってる方も、
ごきげんよう。
偏光です。
少々自慢したいのですが、
私以外に一体どんな四十代女性が、
檀家になっているお寺の御住職(七十代)から、
「今大阪で円空展やってるんですねぇ。
観たいんですけど行きませんか?」
と誘われて、
「ああ。良いですね。
行きましょうか」と、
円空が何者であるかを把握した上で、
即座に応じ切れるだろうか。
(文字数:約2700文字)
『円空
ー旅して、彫って、祈ってー』
大阪府あべのハルカス美術館
4月7日(日)まで。
1700年代後半頃、
岐阜や愛知を中心に、
北海道から四国に至るまで、
行脚した中で仏像を残しまくった、
(おそらくは)修験道系の僧侶です。
パパ活でなければ介護
とは言え御住職、
腰の骨を削る手術をしたばかりで、
階段はもちろんエスカレーターも、
なるべくなら避けたい。
基本エレベーターを探すのだが、
長く歩き続けても痛み出すので、
休み休み歩き続ける間も、
右腕をずっと掴んでもらってる状態。
そして御住職、
御詠歌の授業以外では、
袈裟に法衣をお脱ぎになって、
スーツ姿に、
五分刈り風の坊主頭なんですよね。
一見僧侶と思われにくい。
七十代にしては若く見えるし、
傍目からの私はもしかすると、
パパ活でなければ介護。
さすがに円空展鑑賞中にまでは、
パパ活とは思われないだろうけれども、
大阪は阿倍野の街中からその様子なので、
割と謎めいた二人連れという自覚はある。
細かい事は気にするな
そして御住職は僧侶ですので、
円空仏に興味津々。
「うわー。変わってますねぇ」
「面白いですねぇ」
写真も撮ろうとするんだけど、
起動や保存にまごつく。
だって七十代ですもの。
しかし御住職は僧侶ですので、
それも御詠歌に関わってきた方ですので、
仏像それぞれのお姿や持ち物の、
細かな造りまでが気になる。
「観音菩薩は水瓶(すいびょう)か、
蓮の花を持っていないと」
「これは如意輪観音ではないでしょう。
腕が少ないし何より如意輪が無い」
「不動明王には火炎の光背が無ければ」
偶然手に入った木材を、
行く先々で知り合った人々の、
要望に応じて彫ってんすよ!
細かい事は気にするな!
と御住職でなければツッコンでいる。
そして高野山の僧侶ですので、
それは分からない事もある。
「観音菩薩の脇侍が、
不動明王? ですか???」
「天台宗系の組み合わせらしいです
(作品横の解説を読んだだけ)」
「神様は私はさっぱりですー(困)」
「蛇って事は水神ですねぇ。
農民は雨を望みますからー」
何より僧侶が慌てふためいたのが、
さすがに撮影禁止になっていた秘仏、
歓喜天(かんぎてん)。
「ダメです!
これは本来展示しては、
絶対にダメな品です!」
「ですよねですよね!」
恐怖で全身が総毛立つぞ。
理由を明言しとくけど、
形がそこはかとなくエロいから、
じゃねぇんだよ。
霊験あらたかが過ぎて、
私は生駒山から帰って一週間、
謎の読経とリンパ痛に苛まれたんだ!
厳重取扱注意神像なんだよ!
「学芸員は誰も知らないのですか?」
「知識として知ってはいても、
好奇心に公開欲が勝るだろう事は、
御住職には申し訳ありませんが頷けます!」
「はー……(呆れつつも飲み込んだ)」
「今日は助かりましたー。
大変勉強になりましたー」
と御住職には楽しんで頂けたようだ多分。
僧侶だって人間だもの
実は僧侶に誘われ見に行ったのは、
円空展が始まった2月の中旬だったのだが、
記事を書いたのは残り一週間以内という、
終了間際になって申し訳ない。
残念ながら円空という人物については、
ほとんど分からなかったので、
ミュージアムショップで五来重著、
『円空と木喰』を購入し、
一通り読み終えた上で改めて、
一人で再訪してから記事にしたい、
と思い込んだ。
「五来さんは大変有名な方ですよ」
「では買います」
「木喰は和歌山の人ですし」
「え? そうだったんですか?」
「はい。高野山では有名な方です」
……違うよ。
木食(もくじき)は修験僧を指す、
一般名称みたいなもので、
高野山で有名な方は木食応其(おうご)、
仏像で有名なのは木喰行道(ぎょうどう)だよ。
しかしながら皆さん、
僧侶なのに知らないなんてと、
笑ったりするのはお門違いですよ。
僧侶だって人間ですから、
専門外の分野については、
そりゃ間違うし忘れるのです。
そんな時に肩書き以前に、
実質として偉い方はどうなさるか。
「あ。間違いました。すみません」
と認めるし謝ります。
「どんな漢字でしたっけ。
忘れてしまいました」
と認めるし檀徒に訊きます。
普通にそれでいいんです。
それしきで檀徒側だって、
敬意を失いやしないんです。
可愛いとしか言いようがない
というわけで改めて、
一人でも観に行ってみると、
円空仏、
可愛いとしか言いようがない。
大黒天が持つ巨大な袋と、
その下にはみ出した靴先とか、
十一面観音の、
頭についた小さな顔一つ一つとか、
両面宿儺の正面向いた頭の、
後ろからこっそり飛び出してる、
多分裏面の奴の手とか、
青面金剛の足元にいる、
三猿が小さいながらもきちんと、
みざる・きかざる・いわざる、
になってるとか、
単純に小さきものを愛でとるやんけ。
彫り込みながら顔に見えた瞬間、
クスッときとるやんけ。
この人ただ木材の端切れが、
両手を合わせて祈ってる風に見えたら、
それで良かったんちゃうの?
実際それで十分ちゃうの?
小難しく考えなくていいのよ。
修行の末にどのような木材の内にも、
仏を見出せるようになった、
とか大上段に持ち上げなくてもさ。
その辺の子供達が持ち去って、
おしゃぶりにしたり、
布切れ着せ替えたりしてるうちに、
どっか行っちゃってそのうち、
自然に還るみたいな、
子守りの神を作ったんでしょうよ。
それが何よりの志じゃないですか。
以上です。
ここまでを読んで下さり有難うございます。
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