【小説】『姦淫の罪、その罰と地獄』罰ノ四(1/5)
明治時代の新米密偵、楠原と田添の一年間。
罰ノ四:仕事の嫌さ加減がこれでもか。
ところで楠原には遊び相手のお姉さんもいます。
一方で静葉との仲は店の側からも承認されるが、
有難いからと言って喜ばしい事態でもない。
イントロダクション
序説 罰ノ一 罰ノニ 罰ノ三 罰ノ四 罰ノ五
罰ノ六 罰ノ七
(文字数:約2700文字)
罰ノ四 耳が汚れる
この色だ、と子供は父親の顔を見上げながら思っていた。
「出て行け」
入らせてもらった兄の部屋で、いつの間にか寝入ってしまったその上に、布団なんかも掛けられていて、揺すぶられて目を覚ましたほっぺたを、いきなり強くひっぱたかれて、ワケが分からなくて、ハダシのままの両脚も畳の上に投げ出していて、ほっぺたが、熱くなりながら痛んでくるけれどそんな事よりも、
「お前が無断で家に入る事は、許さん」
父親の声の内に浮かんでくる、かつては母が見せていた色味。母がいなくなってからはなぜが父親が見せるようになり、どうかすると兄や桝機なんかの顔にも見えている色味。おんなじ色味なのに、人によって場所によって、まるで違った見え方をする。暗いんだか明るいんだか、自分にとって良いものなんだか、悪いものなんだか。
ただ一つ言える事は、友達にはなれない。
あたたかく見えても、親しみが持てても、突き刺すみたいに冷たく感じられても、そこだけはみんな同じだ。ちょうどいい間合いを許さない。
「なんでぇ……?」
「聞こえないのか」
指が細いので長く見える手のひらが、頭の上を越えて襟首を、掴みに掛かってくる。
「待って、待って下さい。父上」
兄の義視が割って入り、父親の袴の裾に取りすがった。
「私です。私が入れたんです。コイツ、今日は誰からか……、いじめられてきたみたいで、ケガもしていたので……」
「どこで。誰から、何をされたと」
「いえ……。そういった事は、何も……」
「ならばコイツが悪い」
言い捨てると襟首を掴み上げ、縁側から子供を庭先へと放り投げた。
「父上!」
夜の闇の中に。まさしく犬の子でも扱うように。
ぽうんと放物線を描く間に、子供は膝を抱え、丸めた背中から転がり込むように庭土のやわらかな所に落ちたので、痛くもなければ昼間の傷口が開いたわけでもなかった。
だが、そういう事ではない。
「お前も同情などする必要は無い。コイツは家の者ではないのだから」
御大層な屋敷の内側から、御立派な洋燈が明るく照らしてくる背中側から、届いてくる色味に息が詰まる。
「なんでだよ……」
庭先にも縁側の端際にも、顔見知りの使用人たちが控えていやがる家で、中の二、三人は指まで差して、笑って良いんだか憐れんでも構わないんだか、戸惑った色味ばかりが遠巻きに囲んでくる。背中でも、傷口でもない。腹の内なんだか胸の奥なんだか、分かんないけど体が中身の方から、引き絞られるみたいに痛くって、
「なんでだよおぉ!」
ぼろぼろ涙があふれ出してきて、男なんだから泣くんじゃないとか前にも何度も言われてきた事思い出したけど、知った事じゃねぇ! てめえが泣かせにきてんじゃねぇか!
立ち上がり、振り返るなり縁側へと駆け出した子供を、止めに入る余裕のある者は初めのうちいなかった。大声を上げながら裸足で土を蹴り、この屋敷の使用人達にとっては、御主人様の背中に向かって飛びかかる。
振り向きざま振り上げられた主人の足が、右足の腹が、子供の帯の真ん中めがけてべったりと食い込んだので、子供は蹴り落とされ庭の土にもまみれて咳き込みながら、気の毒な有り様ではあったのだが、つい吹き出してしまう者もいた。一連の流れはあまりにも、動きといい間合いといい、息が合っていて、長く共に暮らしていた者同士の親しみのようなものが感じられたからだ。
「土蔵に、籠めておけ」
「なんでだよ! おい! 父ちゃん! ってかてめえ、クソオヤジ! いいかげんふざけてんじゃねぇぞ! ドチクショウめ!」
昼間ののんびりぼんやりした様子とは、打って変わった子供の活発さや、荒っぽい口ぶりに、なるほどこうした利かん気のある子なのだなと、彼が屋敷に身を寄せてからの主人の仕打ちに、ようやく合点が入った心持ちになる者もいた。
「なんでなんだか教えろよ! オレ、何も分かんねぇ……。なんにも分かんねぇまんまじゃねぇかバカヤロウ!」
「やかましい!」
中には主人の仕打ちを見て、自らも力を得たかのように、ぞんざいに扱っても構わない相手のように心得る者もいた。
「御主人様の命令だ! 大人しく小屋に戻るんだよバカ犬が!」
自分に向かって拳が振り下ろされる、その間に子供が見ていたのは、縁側の向こう、障子戸の端際に立ち、涙をいっぱいに溜めた目を痛そうに固くつむっていた、この時点ではまだ兄の顔だ。
「おい。おい、仕事だぞ」
じんわり持ち上がったまつ毛の下で、黒目がちの眼はまだ焦点が定まっていないように見えた。
「楠原」
名前を呼ばれてゆっくりと、振り向いた首をまず右に、次は左にと傾ける。ぐるりと肩の上をひと回ししている間も、路地口に立つ田添はやきもきしているのだが、田添が良しとする間合いはまだ相当に近すぎる事を、楠原は知っている、という事を、田添もそろそろ把握し始めている。
ふわふわした赤茶色の髪をまとめ上げ、黒い帽子の内に仕舞い入れると、ひさしで目元が陰るせいもあって楠原の見た目は急速に、個性を失う。ありふれた型の帽子に、安手のとんびの、掃き溜めで腐りそうなほどにいる田舎出らしい書生の一人だ。へらっと気の抜けた声を出されない限り、今同じ下宿に暮らしている者達にさえ気付かれないだろう。
「仕事。仕事ってよぉおい」
声を出されて田添は頭を抱えたが、実を言えば楠原の方こそ抱えたい。とんびも質の良い漆黒で、帽子の陰から覗く眼光が尋常じゃない田添は、あからさまな「書生のふりをしている何者か」に見える。
「こぉんなに馬鹿らしい仕事ってもんも、そう多かぁねぇよなぁ」
「何?」
一旦うなだれた頭を上げた、ほぼ瞬間のうちに、ぴったり左横に張り付いて来られたので田添はぎょっとした。
「やってる事がよぉ」
田添の肩にひじを付いてそこからは、小声で耳元に囁いてくる。
「デバガメと、一向変わりねぇじゃねぇか。みっともないったらありゃしねぇ。俺ぁ一体何やってんだって、なんかこの頃、思うのよっ」
外したひじを手のひらに変えて、肩をぽんっ、と叩いたはずみで楠原は、隠れ潜んでいた路地を出た。
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