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【小説】『姦淫の罪、その罰と地獄』地獄ノ二(1/5)

 明治時代の新米密偵、楠原と田添の一年間。

 地獄ノ二:春駒に気を惹き付けられながら、
      楠原は別れたはずの静葉を訪ねる。
      田嶋屋を訪れた日は「玉割り」で、
      むしり取られた挙句追い出された。
      (この粗筋、やや語弊あり)

イントロダクション  序説
罰ノ一  罰ノニ  罰ノ三  罰ノ四  罰ノ五
罰ノ六  罰ノ七  罰ノ八  罰ノ九
地獄ノ一  地獄ノ二  地獄ノ三  地獄ノ四

(文字数:約2700文字)


地獄ノ二 ツケが回る


 常に正確で鮮明だった、オレの意識は、日に日に境がぼやけ濁っていった。
 酷い夢を見て暗闇の中で目を覚ませば、その瞬間から、涙と叫び声が止まらない。親父のふかふかの布団の内で、夢だった事など分かり切っているのに、隣で寝息を立てている親父にしがみついて見苦しく、ギャアギャアと泣きじゃくってしまう。
「禎一。まぁ、泣け。人は、泣いた方がいいからな」
 泣こうが喚こうが、腹が減るばかりで意味が無く、笑ってみせればその度に、ぶん殴られた。生まれぞこないと物心ついた時から母親からも、言われ続けて、メシはどうあっても手に入らなくて、母親も死んで、オレが生まれたからだってオレを呪いながらすさまじい形相で死んでいって、オレもとうとうここで死ぬんだなって、諦めて諦めて、何度だって諦めて、諦める事にもうんざりするほど、諦め尽くしたってのにどうしてオレは、まだのうのうとこんな所に、生きているんだって考えたら、
 オレよりもっと小さいくせに、飢えて痩せ細って野垂れ死ぬ奴らを腐るほど、見続けてきたからだ。
 母親が産み捨てたオレの、弟か妹だったかも分からない奴らを、まだ人の形にすらなっていない血と肉の塊を、オレがオレの手でボロ布に包み込んで、子供だったらまだ見つかっても捕まりにくいからって、オレが川岸まで運んで行って、水の中に入れた両手を、放してきたからだ。
 オレは運が良い。ギリギリで、本当にギリギリのところでどういうわけだか、見逃される。
 身体のどこかを決定的に潰されず、使えなくさせられずに済む。頭が痛むくらいに甘かったパンただ一個だけを手渡される。アイツらが、しがみついてくるからだ。まだ楽になるんじゃねぇって。オレだけは、まだまだ苦しんで生き地獄を味わい続けろって!
「なぁ禎一。オメェを拾ったのは、やっぱ、間違いじゃなかったよ」
 オレは、どんどん賢くなくなっていくのに、親父がソイツを繰り返し、言い聞かせてくるのが不思議だった。
 亡くした息子はよっぽど頭が良かったんだなって、思いたかったけど思い込んでしまいたかったけど、「拾った」ってひと言が、毎回容赦無く入れ込まれていて、今ここにいる、オレを指して言っている事くらい分かってしまう。
「禎一。泣くんだよ。泣くのは絶対に、良い事だからな」
 言葉なんか、泣いている間は何一つ、出て来なくて、獣みたいに喚き散らしているばかりで、親父には、泣いている理由なんかさっぱり分からないだろうに、ポンポンと大きな手のひらで、背中を撫でてくる。
「泣かせてももらえねぇ、ってなると人ってヤツぁ、どんどんおかしくなってくんだ。そりゃあだって本当は、泣きたいんだからな」
 そんな感じだから聞く者によっては、下卑た思い違いもしてしまうらしく、
「昨夜は随分、お楽しみでしたね」
 なんて朝っぱらからニヤついてきやがった、野郎の顔面を、親父は掴み取って身体ごと持ち上げていた。
「笑えねぇ冗談ほざきやがるアゴは、今ここでなくなっても構わねぇな」
 オレはソイツのアゴなんか、どうなろうと構いはしなかったんだが、
 ああそうか、アゴがなくなるって事は、メシが食えなくなるんだなって、気が付いたら、
 自然と近付いて行った親父の、着物の裾を掴んで、とは言ってもオレはこの家では、しゃべれない、事になっているから、
「お」
 とだけ声を出すと、親父はそれで気が付いたみたいに微笑んで、ソイツを掴んでいた手を放した。地面に落ちてもまだ青ざめたままオタオタしているソイツに向かって、おもむろに言ってのける。
「禎一に免じて今日のところは、許してやったんだ。俺の留守中禎一に怪我でもさせたら承知しねぇぞ」
 そんな次第でオレは、一応表向きの待遇面では、丁重に扱われた。

 甲高い声が響き渡り、警官たちの三、四名が裏口へと回って行った。
「犬畜生が! どうよ。アタシの声はどうよ。アンタたち、アタシの鳴き声聞きながら、小汚い丘を濡らしてんでしょうよ!」
 まだ相当に若い街娼が、背後から密偵に取り押さえられ、後ろ手に縛られるところをもがき騒いでいる。普段よりも手こずっているらしく、暴れる女は着物の襟裾も乱して、かえっていけない場面を目撃しているようだ。
 密偵は二人一組のはずだがもう一人は、と警官たちが気にし出したところに、滑り込んで来た今一人が受け取った縄を引くなり、女は静かになった。抵抗しても無駄な相手だと、本能で察したらしい。
 とは言え腹の虫が収まらないらしく、縛り上げられた身をねじり、隣の、初めに羽交い締めにしていた密偵の下アゴ目掛けて、ツバを吐きかけた。
 落ち着いた様子でその密偵は、仕事柄はめている手袋の、甲側で下アゴをひとしきり拭うと、いきなり女の頭を鷲掴んで地面へと突き飛ばした。
 縛られたまま一本の棒のように倒された女は、顔に泥土を付けながら、キッとその密偵を睨み付けたが、
「本気だ」
 呟くと同時に吹き出し、けたたましく笑い声を立て始めた。
「本気にしやがった、コイツ……! 夜鷹相手に腹立てて、ざまぁないったら」
 身振りで連行を指示されて、ハッとなった警官たちが、女を引き立たせ連れ去って行く。
「お犬様ぁ! とんびの内側は大噴火かい?」
「黙れ!」
 と一応は怒鳴ってみせる警官もいたが、思わず吹き出してしまう警官もいた。いずれにせよその先は彼らの知った事ではない。

「お前らしくなかったな」
「俺も驚いてる」
 橋の上に立ってようやく、しかし待ち構えていたようにほぼ同時に、田添と、ついで楠原が言い出した。言わずもがなだが件の街娼は、春駒だった。
 小刻みに震えてもいる自分の手のひらを、楠原は見詰めていたが、田添からの視線もそこに当たっている、と気が付いて「はは」と笑ってみせる。
「何かさ、その、お前みたいだったよな」
「俺だってあんな真似はしない」
 言い切られてしまえば笑い止め、口をつぐむしかなくなる。
 橋の対岸を見据えて渡り切るまでを、お互い黙り込むつもりに思われたが、橋が終わる直前で田添は再び口を開いた。
「あんな真似はしない」
「分かってるって! 淡々と繰り返すなよ!」


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