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【小説】『姦淫の罪、その罰と地獄』地獄ノ一(5/5)
明治時代の新米密偵、楠原と田添の一年間。
(文字数:約1300文字)
せいせいした、と無理にでも思い込もうとしている自分に、楠原自身気付いていた。
どうしよう。どうしよう俺仕事出来なくなる。はっ。出来なくなったっていいじゃないか、あんな仕事。前みたいにはとても。そもそも期待されてもいなかった。良いように使われてうんざりしてきただけの仕事だ。そうだろう? そうだけど! その、田添とか、先輩たちなんかに見えなくなった俺が、何の役に立つんだよ。
見えていない、とは言えこれまでに、身に覚えた感覚で歩く事は出来た。おそらくはまだ以前とも遜色が無いくらいに。しかし、見えていない分は自信が持てず、見えている暗さにも引きずられる。
ごめんなさい。ごめんなさいごめんなさい。許して下さい、助けてってオレ、一体いつの誰に謝ってんだ? 確かその後に思ってた事を、オレ絶対に聞きたくなくて、聞くわけにいかなくてオレは母ちゃんだけは守るんだって、あん時に、オレから切り離して追い出した気がする。母ちゃんは、とっくにそん時には死んじゃってた気もするけど。
さようなら。さようならだ。もう、いいだろう。やめちまおう。終わらせちまおう。オレもうこの身体イヤだ! コイツが生きて動いてしゃべってる事全部がイヤだ! 気色が悪い自分でも触りたくない、って勝手に決め込んで俺の内側でしゃべって来てんじゃねぇよ!
ってか今ここにいる俺はどれなんだ。分かんない。分かんない。一体いつからどれだけ、俺の中にいて、いつから整合とか取れなくなって、いつから吐き気が続いてる? コツコツコツコツと、内側から刻み付けるみたいな痛みも。
けたたましい笑い声が、内側から聞こえているものか外側から聞こえてくるものか、判然としない。しかし自分の声にしては、妙に甲高い。まるで女性みたいだ、と気に留めた楠原が目を上げた先には、春駒がいた。
店先程度を照らし出す、提灯の灯りの中で、居酒屋から出て来る男どもに手当たり次第声を掛け、しなだれかかっては着物の裾も乱して、さらした脚なんかも絡み付けんばかりにしている。
以前は楠原の目に、子供と映るだけで、物陰の隙間に押し込められていたほの白い全裸にも、痛ましさを覚えるくらいだったが、三ヶ月の、拘留を終えて出たらしい今は、前以上にふてぶてしくなっていた。
何より自らが女である事を、自覚している。
気が確かであればその有り様は、みっともなく、汚らしく、近寄り難いはずでありながら誘い招くような香気を、辺り一面に振り撒いている。色味が見えなくなった身には、これほど食い込むまでに感じられるものかと、路上に立ち止まった楠原に目を留めて、あからさまにニヤついてもきた。
楠原に見せつけるかのように、交渉がまとまったらしい男に絡み付くと、着物の上からでも乳を揉みしだかれキャアキャアはしゃいで見せながら、提灯の光も届かない暗がりの先へと消えて行く。
後を、追わなくては、
そう思っていたはずの楠原の脚は、暗さにすくみ切って動かなかった。思い出したくもない遠い日のいつかのように。
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