【小説】『姦淫の罪、その罰と地獄』罰ノ七(2/4)
明治時代の新米密偵、楠原と田添の一年間。
(文字数:約3100文字)
「しばらく顔見せない方がいいよアンタ」
戸口脇に伏せて置いてある樽からは、またソイツの声が届いてきた。
「ほとぼりが冷めるまで。二、三ヶ月とか半年とか」
暖簾をくぐって出た外は夜で、俺にはソイツの顔色が、何となくだけど伝わっている。
「ってか来んなよ。もう。お互いその方がいいだろ」
「何やらかしたんだか覚えてない」
息を飲む感じがものすごく、深刻に響いて、
「って言ったら、信じる?」
振り向いて作った笑みを見せてやったら、
「信じねぇよ!」
と立ち上がって、腹立ちまぎれみたいに足を踏み鳴らしながら、暖簾の奥へと消えて行った。
「だよな」
半分夢の中みたいな心地で、中央の大通りを歩いて、見返り柳も行き過ぎて、石造りの大門を越えたところでようやく、実感が襲ってきて頭を抱えた。
一体何やっちまったんだ俺、本当に……。
娼妓解放令、として世に知られる法律が、十分には機能し得なかった理由は、次の一文に表れ出た法律そのものの性質に起因する。
ーー 遊女は、牛馬に異ならず。 ーー
遊女とは人倫において凋落した、言わば牛馬と同等の存在である。牛馬に主人の借財を負わせ、かつ返済せしむる事は期待できない。それ故に、遊女に主人の借財を負わせる事も、また不可能である、といった論旨を展開したのだ。
事実一旦は解放され、救われ得た者も確かにいたとは言え、行く先々で彼女達に向けられる扱いや眼差しが、快いものになるとは限らなかった。牛馬同等、と文字にして刻まれてしまった分、かえって質が悪くなるようでもあった。
この状況にしかし、自由民権思想を学んだ学生達が、また新たな論理を打ち立てた。
成人した男女は、当時の民法の規定において、親の借財を免責される。従って遊女達にもその条項が、適用されるべきと説いたのだ。
「なんだ」
語りながら悦に入っていた私学生は、何でもなさそうなその声を聞いて気を削がれ、振り上げてもいた拳を下ろした。
「聞いてみりゃあそこそこ簡単な話じゃねぇか」
学生、の中でも正統な流れからはやや逸れたように、日頃から思われ言われてもいる私学生、の中でも更に毛色の変わった学生だ。どこの理容店でどういった染料を使ったのか、わざわざ髪の色を赤っぽい茶にしている。
「その簡単にこれまでは誰一人気付かなかったんだぞ」
「ウソだね」
へらっ、とした笑い声に、聞いている側の気も抜ける。
「その程度の事なら誰だって、俺だってあんただって気付いてたさ。誰も本気でそいつをやってみようとは、思わなかっただけで」
髪の色と、笑い方ばかりが印象に残り、具体的な顔形は誰も思い出せない事実に、彼らは相当後になって心付き首を傾げる事になる。とは言えそれほど重大な事にも思われないのだが。
「まぁ、俺も今度そっちの集まりに顔を出すよ」
「先に、白里様にお会いしてくれ」
ふにぇ、に聞こえそうな「へ?」を答えてくる。
「誰それ」
「我々の活動を支援して下さる方だ。白里様と、直接話をして承認を得た者でなければ、『その土地』を教える事は出来ない」
ぱか、と開けた口を下唇から閉じて息を抜くような、変わった溜め息を、人によっては後々まで思い出せもするが、それだけだ。
(白里様、ねぇ……)
私学の表門を出て歩きながら、楠原は腹の内でぼやいていた。
(大丈夫かな。自分のこと「様」とか呼ばせて平気でいる奴に、まずろくな奴ぁいねぇぞ)
へっ、と笑みをこぼしかけたところで気が付いた。一定の距離を空けて後を付いてくる、色味を感じる。
(田添、じゃない。阿川さん……、でもないな。て事は……)
駆け出して、意表を突かれた追跡者が、表通りには見当たらず路地へと分け入った、その直後の真後ろから声をかけた。
「松原先輩」
「ウヒャアアアッ!」
思っていたよりしっかりと慄いた高音が返ってきて耳を塞ぐ。
「何か、用っすか?」
「いや」
振り返って楠原の姿を認めると、松原は、目を瞬いて小さく首を振った。
「日中、お前を見掛けるのが珍しかったからよ……」
お互いもっと言いたい事に、言うべき事がある様子だったが、何しろ往来なもので傍目には、いかにも先輩後輩らしい笑みを作った。
「飯、食いに行くとこだったんだ。お前も付き合え」
「ありがとうございます! 牛鍋っすか!」
「ふざけんな。蕎麦屋だよ」
何のかの言って松原は、面倒見が良いので、「故郷の親達からも上京する息子達を頼まれたりしている」と下宿屋の女将には話してある。
「どうだよ」
と番台に沿って横並びの椅子が置かれただけの蕎麦屋で、蕎麦を食い出しての湯気越しに、話しかけてもくる。
「このところ愚痴ばっかみてぇじゃねぇか」
「……田添ですか」
「見た感じで分かるよぉ」
とは言え蕎麦屋で話している以上、学生同士の悩み相談、といった文脈でまとめなくてはならない。
「お前もよぉ、好きで入って来たんだろ?」
「別に……、好きでとかじゃないですよ」
とは言え話しながら自分達にも、学生同士の悩み相談、に似通ったものに思えてはいる。何せ年齢に中身も大して、離れてはいない。
「俺には何か、向いてねぇし」
「俺は好きで来てんだよ」
隣から見上げた松原は、どんぶりを抱え上げ汁までを一気に飲み干すと、
「田添だってそうだろうよ。何のかの言って、でっかい所だからな」
カラのどんぶりを置いた流れで、楠原に、顔も身の全体も向けて来た。
「なぁ。二種類いるんだぞ二種類。お前や阿川みてぇに御立派な実家から、うわこんなとこしかねぇのかって思いながら来る奴と、ちょっとでも良いから先への繋がり足掛かりが欲しくて、ワラにでもしがみつきに来る奴とな」
今目の前にいる松原よりも、言い添えられた田添が思い浮かんで楠原はうつむいた。
「だからお前のそういった態度は、俺ちょっと、ってかかなり、ムカつくのよ」
「すみません……」
松原相手には珍しく神妙に見えてもいる。声もしゃべり口も異なる、同じ内容を聞かされたみたいに。
「けど俺の実家、別にそんな大したとこじゃないですよ?」
「静葉が初見世の時ってお前、いくつだよ」
口に覚えがある失敗を、引き出されたら我に返った。
「どんだけ余裕のある金満家だったら、そんなガキ相手に吉原当てがおうだなんて思い付くんだぁ?」
「松原さん……」
一旦自分のどんぶりに項垂れて、それではずみをつけて立ち上がるなり、腰から勢い良く頭を下げた。
「すみませんっ! 俺フカシこいてました!」
「あ?」
「静葉が馴染みだなんて、ウソです! あの場でとっさに俺、見栄張ったっていうか前からひやかしで覗いてた間の、願望がこぼれ出たっていうかっ」
「いや。だけどほら、静葉もお前の事覚えてるって」
「あれは静葉の機転です!」
「何ぃ?」
一連の流れを聞かせると、松原はすっかりわだかまりが解けた気になったらしく、快さげに笑いながら蕎麦屋を出るなり、
「あ。煙草切れちまった。楠原お前、手持ちに余裕あるか?」
そう声を掛け楠原から、渡された銘柄を見て苦笑した。
「こぉんな安煙草吸ってる奴によぉ……」
軽く頭を下げながら、一本もらって箱は返してくる。
「しっかし阿川まで騙くらかされてんのは気分良いな。このまま言わずにおいてやろうか」
「勘弁して下さい」
恥じ入ったフリで顔を覆いながら、阿川がすんなり納得してくれるようにも、楠原には思えなかったが、
もしかして静葉が直接問いただされたとしても、静葉本人がそう思い込んでくれている。