教養の身に付く過程
あるいは、
「能をほとんど知らない奴が『三番叟』を見たらこう思った」
という話。
イントロダクション
先日ラジオ番組である「教養人」に対し、
「教養って、どうやったら身に付きますか?」
といった質問が為されていたところを、
耳にした時から考えていたんだが。
ふんわりでも経験
昨年なんとなくのイメージだけで、
「能っぽい」話を書いてしまったんだよ。
なんとなくのイメージがなぜあったかと言えば、
九州の我が故郷には音響設備が整わないため、
よっぽどの所縁でも無い限り、
芸能人やアーティストといった方々は、
まぁ滅多に来て下さらないにもかかわらず、
能と狂言だけは、
わりと頻繁に来て下さって、
それも薪能(夜間で照明は松明のみ)なんかを
演じて下さっていた。
……寝たけどね!
なんせ小学生とか中学生くらいだったからさ!
しかし意味などはさっぱり分からんなりに、
おそらくは国全体の一般平均より多めに、
雰囲気だけは存分に味わえていたわけで。
書いた以上は来歴を
とは言え具体的な事は何も知らんまま、
書き終えて良しとするのも敬意が無いなと、
思いっきりの後追いだけれども、
世阿弥著『風姿花伝』(岩波文庫・青・1958年初版)
を読んでみた。
126ページの薄い本だけど、
多分1400年頃に書かれた文章を、
読みやすく校訂して頂いたもので、
それでもちょっとずつしか読み進め切れなくて、
たっぷり3ヶ月はかかったけど。
しかも最終的に
「心ざしの芸人より他は、一見をも許すべからず」
とか書かれてあって(花伝第六花修云)、
なんか「ごめんなさいっ」ってなるけど。
読んだら何かに引っ掛かる
読み終えてしばらく過ごしてたら、
先日NHK『新・にっぽんの芸能』にて、
舞踊『二人三番叟』が放映されていて、
『三番叟』(式三番)って、
なんか『風姿花伝』で重々しく語られてたな。
と思い出し観てみようと録画した。
さんばそう(しきさんば)、って読むんかい。
って初手から派手につまづいたけども。
で、そもそも「三番」って何。
あと「叟」って何。
手元にあるので読み返す
とにかく、
国家安寧を祈る中でも選び抜かれた三演目だと。
そもそも六十六番あった申楽の三番目で、
「叟」の字は「おじいさん」って意味で「翁」と一緒。
父尉、翁、三番叟と三番目に出てくる老人だから、
って説は誤解みたいです。その方が分かりやすいけど。
だって父尉が「翁の父」で大トリだったものどうやら。
室町時代に「父尉」は省略されて、
若者姿の「千歳」に代えられたけれども、
三番目に出て来るので三番叟と呼ばれている、
って説明もたまに見るけど誤解みたいです。
なんで省略されたかって考えたら、
もはや演じ切れる人がいなかったんじゃないかなぁ。
「翁」自体が神的な存在なのにその「父」って。
感想、ですらない素で思った事
で、『二人三番叟』。
式三番(能での演目名は『翁』)の中でも、
三番叟を特に取り上げた舞踊。
「激しい動き」を意味する「揉(もみ)の段」と、
種蒔きに見立てて鈴を振る「鈴の段」に分かれていて、
まずは「揉の段」の予祝(よしゅく)。
あらかじめ祝っておく事で、
今年の実りを確かなものとする農業的祭礼、
なんだけども、
⚠️これから能好き舞踊好きな方々には、
おそらく不敬に感じられる事を言います。⚠️
……って呪いやないかい!!
お前ら以外には!
実りが見込めて能舞台を楽しめる連中以外には、
「他所にはやるまい」って、
しっかり呪われとるやないかい!
……申し訳ない。
九州の中でも海からは遠く、
火山には近くて実りの乏しい故郷だったもので、
ついヒートアップを。
表されている事は分かります。
副音声の解説付きで見た後、
主音声のみであと2回は見たから。
(これがやりたいので積極的に録画する。)
「揉の段」は足を踏み鳴らす地固めで、
「鈴の段」は種蒔きで、
共に農業の礼賛。
黒式尉(こくしきじょう)という黒い翁面を付けるのは、
労働で日焼けした様じゃないかと思う。
何でかって、
ってさっき抜き書きした『風姿花伝』にあったから。
法、が存在自体めでたい長寿神としての「翁」。
報、が日々の努力に報いをもたらす豊穣神の「三番叟」。
応、がヒトの祈りに応えて現れる主神すなわち「父尉」。
だったよね。
多分「式三番」成立当初は。
ああざっくりの理解です。
本当にそう言えるかはもっと調べてみないと。
むしろ今「千歳」の情報が乏しくて気になってる。
「近江の白髭」って謡の中で言ってたから、
琵琶湖にある白髭神社の化身みたいだけど、
今度行ってみようかな。
というわけで結論
別に私に訊かれた事じゃないから、
「お前が言うな」って話だろうけど、
「教養」ってのは、
気になったもんを気になった時に調べてきゃ、
いつの間にか身に付いてるもんですよ。
まずは自分自身の「気になる」を、
決して軽んじない事。
もしかして、
「良い教養」とか「役に立つ教養」みたいなもんが、
この世に存在しているように思っているのだとしたら、
その感覚こそ疑った方が良い、
と思う。