人は鏡じゃない
はじめましての人も、
前から知ってる方も、
ごきげんよう。
偏光です。
単純な事実。
(文字数:約1000文字)
悲しいかな人というものは、
向かって右半分を主に、
その人物の「顔」として、
認識するものらしく、
そして毎日見ている顔ほど、
愛着や好感を抱いてしまうものらしく、
私は鏡で見ている場合の、
私の顔の右半分を、
わりかし整っていて、
肌も年齢の割に綺麗だと思っていたのだが、
鏡ではない実物としては当然、
こっちが私の顔の左半分だと気付いた時に、
鏡の中では左半分の、
シワやシミやクスミ具合に、
まぶたの歪み具合が目について、
何だ。
日頃顔を合わせる人々にとっては、
こちらこそが私の「顔」なわけだと、
気付かされてしまった。
とは言え日頃顔を合わせる人々の中でも、
目の見えない人々にとっては、
実にどうだっていい話だ。
目が見えない人にとってどうだっていい話は、
私にとっても、
本当を言えば全ての他人にとっても、
どうだっていい話と言える。
人は視覚のみの情報で、
判断しているわけでもないのだから。
ただ私は今回のこの件で、
自分の顔ですら認識を誤らせる代物を、
「人は鏡だ」などと、
なぜ教訓めかして使えるのか、
常々思っていた疑問を、
改めて思い返しただけだ。
もはや多くの人の耳に脳に馴染んでしまい、
疑問を呈する人間の方が、
どこか神経質とか、
重箱の隅をほじくるタイプのように、
思われてしまいそうな言い回しだ。
「そうですね〜。ええ。ええ」と、
なごやかに微笑んでいれば済む文句だが、
私はその状況、つまり、
聞いた側の反応がほぼ一種類に固定され、
そこからの逸脱が良しとされない状況を、
割と強めに嫌う。
余談だけど、
前にも調べて記事にした気がするけど、
「人は鏡」ってそもそもは、
「為政者が国民を見て、
自分の政治を推し量れ」
って意味だから、
庶民とか目下に対する説教に使うなよ。
って私は本気で呆れ果てている。
「働かざる者食うべからず」もね。
あれ「教会で働く人たち」に対する、
教訓だからね。
庶民にまで流用した上で更に、
ドヤ顔するなよ。
あ。更にポツリと呟いとくけど、
私「偏向」ちゃうねん(汗)。
「偏光レンズ(サングラス)」
から付けた名前であって、
「偏向」しているつもりはないねん。
うん。
変換間違いしやすいんは、
重々分かっているんやけども。
以上です。
ここまでを読んで下さり有難うございます。