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『吾輩は猫である』を読んで笑えるか泣けるかの問題(映画『ヴァージン・スーサイズ』)

 はじめましての人も、
 前から知ってる方も、
 ごきげんよう。

 偏光です。

 好き嫌いは別として、
 何事かを訴え掛けられ続ける作品はある。

(文字数:約2600文字)


  『ヴァージン・スーサイズ』
    1999年 アメリカ
    ソフィア・コッポラ監督
    ハンナ・ホール、キルスティン・ダンスト


好きではないが良い映画、はある

  私にとっては絶妙に不愉快な映画なので、

  記事を書きたい映画リストに、
  先々週の日曜3月3日まで、
  入っていなかったんだが、

  絶妙に不愉快になったのは、
  美人姉妹5人に対する、
  周囲の視線や態度に対してであり、

  そうした不愉快さを、
  リアルに受け取らせてくれるのは、
  まさしく良い映画の為せる技だ。


自殺未遂と『吾輩は猫である』

  冒頭からハンナ・ホール演じる、
  5人姉妹の末娘が、

  自殺未遂をした理由を、
  医師から尋ねられてこう答える。

  「先生は13歳の女の子じゃないから、
   分かりっこないわ」

  これに対して観客の一人一人がどう感じ、
  自分側の心に対してどのように対処するか、

  納得させるか、
  納得できなさを引きずるか、

  それが全てだと言って良い。

  言い換えれば、
  この記事のタイトルに掲げた、
  夏目漱石著『吾輩は猫である』を読んで、
  笑えるか泣けるか
の問題だ。

  なぜ『吾輩は猫である』が関わるか。

  私自身が大学生の頃、
  自殺未遂をやらかした時に、
  父が勧めてくれた本だからだ。

  「コイツを読むと笑えるぞ。
   悩んでいる事なんか馬鹿馬鹿しくなる」と。

  父の当時のお気持ちくらいは、
  分かるし大変有難うなんだが、
  私は父に勧められる以前に読んでいて、

  人間社会というものに絶望し、
  悲しみにくれたんだ。
  申し訳ないが悩みは一層深まった。


共感の階層

  それ以来私は、
  ひと口に「共感」と言っても、
  二階層あるように思っている。

  猫の視点を持てるか否か、と、

  猫の立場になれるか否か、だ。

  その立場、
  になれるかどうかで、
  目に映る言葉に字面は同じでも、

  言葉の意味合いや、
  笑われる対象に方向性、
  賢さ愚かさの判断に度合いまでもが、
  まるっきりで変わってしまうんだ。
 
  

  誰かの評論を読んだわけでもなく、
  あくまでも私の理想を言えば、

  夏目漱石本人は、
  ほとんど自身の心境を、
  飼っていた猫に仮託して書いたと、
  思うんだが(思いたいんだが)、

  「これはまさに自分たちの姿だな。
   恥ずかしいな改めなくては」
  とか思ってくれるならまだしも、

  「いるよね。こういうヤツwww。
   (自分は違うけど)
   バカには猫の目でも借りて、
   バカって教えてあげなきゃですよね。
   さっすが夏目先生♪」
  とか誉められて持ち上げられて、

  「いやぁ」とか照れながらも内心、
  (本音吐き出しただけなんだけどな……)
  (ってか俺、自分も勿論だけど、
   あんたたちを茶化してたんだけど?)
  とか正直冷や汗かいてた気がするんだ。

  (しかしながら読者や批評家としては、
   笑わなければ、
   あまつさえ怒り出そうものなら、
   自分こそが笑われる対象だと、
   自ら認める形になってしまい、
   大変に以後の付き合いがやりにくい。)

  (そのやりにくさにもめげずに、
   笑わずにしっかりと頷ける人が、
   本当に賢い人だと私は思うんだが。)


13歳の女の子

  それを踏まえた上で映画に戻る。

  この映画ならびに原作の小説は、
  5人姉妹に憧れていた、
  近所の青少年たち目線で描かれている。

  しかし私はかつて13歳の女の子であったし、
  ソフィア・コッポラ監督も、
  かつて13歳の女の子であった。

  するとかつて13歳の女の子であった者には、

  語り手である青少年たちの、
  悲しいけれど妙に美しくもあった、
  青春の思い出的フィルターを通して、

  彼女たちの絶望に満ちた、
  もがき苦しみが聴こえてくるんだ。

  てめぇら都合よく美化してんじゃねぇよ、
  くらいにさえ腹立たしく思うんだ。


言葉が通じてねぇんだよ

  同じ言語話者であっても、
  同じ地域の住民であっても、
  共感の階層が異なれば、
  言葉は一切通じていない。

  青少年たちは、
  彼女たちの視点を想像できても、
  彼女たちの立場には一切なれていない。

  なれるわけがないとすら思っていて、
  なってみようという気すら起こしていない。

  私の父が、
  猫の視点から見ると笑えるな、
  とは思えても、
  猫の立場は想像すらしていない、

  出来るはずがないだろ畜生なんだから、
  とでも思って済ませているように。

  その地域の憧れの、
  あるいは親の自慢の、
  美人姉妹としか思っていない。

  それぞれに意志があり、
  それぞれの言葉を話す、
  一人一人が人間だなんて考えてもくれない。

  時におぞましいほど醜く見える、
  近隣住民や家族が、
  自分たちが当然のごとく愛すべき
  日常として存在している。

  自分たちはこの日常に、
  飲み込まれて馴染んで微笑ましく、
  生涯を送るべきだとされている、

  絶望しかないだろうが。
  私には彼女たちの心境が痛いほど分かる。


要は個人的な憤り

  とは言え映画全体の雰囲気としては、

  「そんなに難しく考えないで♪

   男の子にはよく分からない、
   女の子たちの不思議な世界を、
   可愛らしく表現しただけよ♪」
  って感じに、
  心さわやかに鑑賞する事が、
  可能です。

  そこはソフィア監督実にお見事!
  と拍手を送れる、
  素晴らしい出来栄えです。

  しかしタイトルに表れている通り、
  彼女たちは自ら死を選んでいる。

  『吾輩は猫である』だって、
  動物はそうしたものだから仕方ないみたいに、
  語り手の猫は死んで終わる。

  私はどうしてもそこが納得いかない。

  死なせておいてその要因について、
  考えないなどという事があるものか。

  心ある奴は悼め!

  と問い掛け続ける作品、
  であるように私は思いたい。

  要は個人的な憤りなんだが、
  そうした受け止め方をする者も、
  この世に存在する事くらいは、
  記録しておいていいだろう。


以上です。
ここまでを読んで下さり有難うございます。

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偏光
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