『いのちの初夜』北条民雄
特殊な状況下における作品、
と思われ読まれ続けている現状に絶望しそうになる。
あらすじ:
癩病を患い武蔵野の病院に入る事になった青年、
尾田高雄が過ごした入所から夜明けまでの一夜。
初出:昭和11年
雑感:
iPadのブックアプリで30ページ弱、
私なら約30分で読める作品だが、
ハイライトを入れつつ少しずつ読み進める、
を3回繰り返して12日掛かった。
本の存在はボランティアセンター経由で知っていたのだが、
紹介された印象よりも実際に読んだ感覚の方が面白かった。
内容は深刻そのものだが文章に、
どこか突き放した観察力と、
それが醸し出すのどかさがある。
「ぽくぽく歩く」「(義眼を当てて)もぐもぐとしていた」
といった擬音の、
実際そうとしか言い表せないのだろう現実味が面白い。
私個人は常々思い、また思わされている事なのだが、
「差別」という形式以上に、
「侮蔑」という実態が、
どこからどう流れてどこに行くかがよっぽど、
問題の本質でありそちらを考える必要がある。
私自身は患者でもなければ入所もしていない。
しかしながら、
枝を見上げる度薬局に行く度線路を見る度に死を思い、
行く宛も分からず夜の雑木林を彷徨い、
夢の中でも逃げ惑いながら、
「他人(ひと)にころされるー」
と叫んだ声が現実のものでは無く、
目を覚ました自分の耳にのみ鳴り響く感覚は、
私自身が骨身で味わい続けたそのものだ。
決して想像で補った理解ではない。
それを思った時にむしろ、
否応無く「理由」を与えられ隔離される状況が
(現代感覚では確かに差別的に違いないのだが)、
当時としてはまだしも、
温情深い処置だったように感じられる。
(もちろん「同情ほど愛情から遠いものはありませんからね」
という作中の一節を踏まえてはいるが。)
事実として、
私も含む現代社会は、
「普通」に行動していない、と見える者を、
容赦無く侮蔑してしかも当然としているだろう。
作中にはないが不妊手術は許し難い気もしていたが、
「育て切れないなら作るな」くらいの事は、
良識ある大人が弱り切った妊婦に、
電波越しなので自身は平然と聞かせてみせるだろう。
現代と、
また患者ですらないただのヒトに対する態度と、
冷酷さにどれほどの差があるだろうか。
確かに重症患者の描写は凄まじい。
この状況にない者が知ったふうな口をきくなと、
嘲笑われてしまいそうな迫力だ。
しかし私が現代社会の中四十数年を経てたどり着いた心境と、
当直患者サエキの思想は奇妙なほどに、
しかも仏教的な色合いも帯びて類似している。
我々は人間である以上の根本として、
「命そのもの」を生きている。
その眼を持てた時にようやく、
個としての人生が始まる。
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