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【小説】『姦淫の罪、その罰と地獄』地獄ノ三(2/5)

 明治時代の新米密偵、楠原と田添の一年間。

(文字数:約3900文字)


 どうして静葉じゃなかったんだろう。
 逆に訊きたい。どうして静葉みたいに思い込めていたんだろう。初めから俺が適う相手じゃない事くらい、分かり切っているつもりだったのに。
 実を言えば今だって、綺麗だってずっとそばで見詰めていたいのは、静葉だ。あの女は、怖い。何も分からない。笑いかけられても言葉だけは良いように言われても、こっちの気持ちはザワザワと、暗く波立って落ち着かない。
 結局手を出さずにいられなくて、手どころじゃなく要するには。
 コツコツコツコツコツコツコツコツと、頭の中から小突かれる感じが、前よりずっと強くなった。今はもう気分じゃない。確実に痛い。俺を嫌い抜いて、俺を憎み尽くして、俺の内側になんざこれ以上、一秒たりともいたくないって、俺を脳髄から潰しにかかっている。
 気を抜いたらそっちの側に乗っ取られて、乗っ取られたら今すぐ、どんな手を使ってでも、死にに行く事が分かっている。だからって、こっちも「俺」な気がしない。これまでどんな顔作って貼り付けて、過ごしてきたんだか。
「楠原!」
 ビクッときて振り向いたすぐそばには、場所柄に関わらず、常に質の良い絹物を着込んだ奴がいて、
 今自分は街中を歩いていた事を思い出した。
「呼んでいるんだ。聞こえないのか」
「田添……!」
「ん」
 違和感があるらしく、目線は据えたままで少しだけ眉をひそめてくる。田添からは一旦、顔を逸らしてうつむいて、そこからも数秒ほどかかったが、これまで田添慎一に向けてきた顔を作り上げて見せると、
「ふむ」
 と頷きはせずに呟いた。それだけで、楠原からは目を逸らし街並みに向けて歩き出す。楠原もその隣を歩いて行く。
「なんか……、すげぇ久しぶりにお前を見た感じがするよ」
「なぜだ。休日をどう過ごした」
 田添相手に楠原でいる事は、そう難しく感じなかった。
「田嶋屋に行ってた」
「やはりか」
 と横顔だけでも明らかに苦り切って見える。
「それで、静葉とは別れてきた」
 その情報には気を惹かれた様子で、目を向けてくる。
「『もう来るな』って、静葉の口から言わせちまった。俺から先に言っとくべきだったんだけどな」
 楠原がしゃべっている間は目を据えて、口を開かずにいる。言葉が聞こえたのは歩く先を向いてからだ。
「結構な事だ」
「いいのかよ」
「俺は以前から言っておいたはずだ。お前がどれだけ想いを寄せようが、店の女だと」
 その文言でふと、足が止まって、
「田添」
 と声を掛けると、少し行き過ぎてから立ち止まり、
「何だ」
 と振り向いてくる。
「『俺の女』って……、いるのかな?」
 声こそ出さなかったが田添は顔の全体が疑問符みたいになった。
「いや。好きになったら、ってか正直言うとやっちまっただけでも俺、相手の事『俺の女』みたいに、思っちまうんだけど……、そんなわけねぇじゃねぇか。言ってて自分でも分かってんだよ。そんな文句、口にしたらかえって、なんか、貶めてるみたいだ」
「ふむ」
「だけど……、それでも思っちまうんだよ。それも相当強く、思い詰める感じに。これって一体、なんでなんだろうなって」
 首を傾げてもいない直立不動でいるくせに、いつもは据えてくる目線が一向に合ってくれない感じで、この上なく戸惑っている事が分かる。
「俺に、訊かれても困るんだが」
「そうだよな。ごめん。女の話だ」
「いや。そうじゃない」
 一旦うつむいて、閉じた目を、また開くなり差し向けてくる。
「俺は、お前のように『誰かから愛されたい』と、強く望んだ事が無い」
 衝撃を、受けた気がして絶句したが、どの方向からの、どういった衝撃だったのかが分からない。内側からも外側からも、つまり田添の側からも揺らされて、かえって均衡が取れた感じがする。
「俺が、何だって言うよりか、じゃあ、お前ってこれまでに誰かを好きになった事とか無いの? 何も女じゃなくても例えば、俺だとか」
「食べるか」
 と田添が顔を向けた先には、墨書きの「ぜんざい」の貼り紙があった。

 建物の内に入り卓に差し向かいで座って、湯気を立てるそれぞれの椀に箸を入れる。
「寒いからな」
 まずはひと口暖かさと甘みを味わってから、田添は続ける。
「気が塞いで妙な事で悩み出す」
「……悪い」
 と楠原はきまり悪い様子でいる。
「言っている事は理解する。一般的に人はそうしたものを、求めてしまう生き物なのだろうとは思う。しかし、俺の場合は……」
 言い止めて田添は黙り込んだ。せっかくの甘味を前にして、箸も止めてしまっている。 
「少し、時間が欲しい」
「もちろん」
「自分の側の、こうした感覚を他人に話した事など、これまでに、無かったからな。どういった言葉に変えて良いのかが分からない」
 身振りで促すと気がついた様子でまた、食べ進めて、
「しかし、うん。これで良いだろう」
 餅一つ分を味わってから一旦、椀を置いた。
「俺は、常に一人だ」
 居住まいを正し目線を据えると、店の隅とは言え田添は壁を背にして座っていたので、楠原だけでなく店員も店に居合わせた者たちも、なんとはなしに気を引かれ耳をそば立ててしまっている。
「生まれて来た時も一人なら、いつか死ぬ時も一人だ。今お前と向かい合っているこの時間も、俺のこの、一人分の席を占めて、俺のこの目線から、この位置と高さから、周りの全てを見て来た者は、これまでもこれからも、ただ俺一人きりしか存在しない」
「うん」
 と楠原だけでなく他数個の頭も頷いた。
「俺は、常に一人だが、俺の意識では常に、中心にいる」
 そこで吹き出しそうになった者が一人くらいはいたが、他には誰も笑う様子が無かったので口をつぐんだ。
「その感覚を、前提として生きていれば、お前であれ先輩たちであれ、他のどういった人物であれ、時折俺がいるこの、中心へと近づいて来て」
 田添の指先が、あらぬ方から卓の手元へと移り、
「たまにすぐそばを掠めて通り過ぎる、くらいのものだ」
 卓のフチを軽く叩いてまた、他所へと向かって行った。
「隣で比較的長い時間を過ごす者もいるが、時が来れば、必ず離れる」
 そこで楠原の表情は少し悲しげにもなったのだが、田添は手元に目を落としていて見なかった。しかし、
「そう思っていれば誰のどのような接点も、珍しいものだし有難い」
 そこでふっと笑みを乗せてきたので、たまたま目にした者たちは、何やら得した気持ちになった。
「俺の姿など目に入らないかのように、あるいは俺の存在を余程小さく見積もって、派手にぶつかって来る奴もいるが、それだって大抵の場合は、面白いと思える。だからと言って笑顔で許し切れはしないが」
 残していたもう一つの餅に箸を付け、「そうだ」と口にしたが味わう事を優先したらしい。話の間に楠原の椀はすでに空になっていたので、田添が食べ終え手を合わせるまでを、大人しく待つ。
「ついでに言っておくと俺は、殺人犯なんだが」
 突然の文言に店中の空気がギョッとしたので、
「おい」
 と楠原はたしなめたが、
「お前もだ」
 と言い切られて肩を下ろした。
「認めたくはないだろうが、誰もが、ただ生きているだけでも多かれ少なかれ、間接的であれ直接的であれ、誰か他の人間の心身を傷つけ、滅ぼし、時には命を奪っている」
 ナンダいかにも学生らしい思想話だと、店内も心得た様子で落ち着いて行く。
「自覚しやすい状況に、身を置いているかいないかの差分だけだ。その事実を、俺は事実だと断言したいんだが、耐え難いと感じるか、悲しいと思えるかだな。まずは」
 それを機に店員も他の客たちも、隅の卓の学生らしい二人組からは、気が逸れて徐々に散っていった。田添の話はまだ続いていたのだが、理解し難い、と決めてしまえば関心は薄れる。
「耐え難い、と感じているうちは、ただ自分一人分の苦痛しか、感じ取れていない。そしてその時点が最も厄介だ。自分一人分の苦痛であれば、自分を殺す事で解決、できてしまう。命を奪う『誰か』には自分自身も含まれるのだから、それは明らかに、間違いなんだが」
 楠原一人が周りの変化には気付かず、差し向かいで話を聞き続けている。
「悲しい、と思えるようになれば、先が生まれる」
 空になった椀を下げに来た店員が、淹れたての緑茶を二人分、卓に置いて行った。田添は軽く頭を下げてから手にしたが、
「どうにかしたくなる。どうにもできないと分かっていてもなお、断念するわけにいかなくなる。これまで多くを殺してきた側としてはな」
「そんな言い方するなよ」
 楠原は卓の上の湯呑みに手を伸ばそうとしない。
「お前は、そっちの側に思えねぇよ。俺には」
 ふ、と笑みを浮かべた田添から促されて、ようやく気が付いた様子でいる。
「有難いが俺は俺だけではなく人類一般の話をしている」
「俺には多分それ、耐え難いとしか感じ切れてねぇなぁ」
「気にするな。それでごく普通だ」
 ひと口飲んで田添は手を止めると、
「あるいは殺された側により近いかだ。だとすれば、他人を思いやれる余裕など無い」
 話しながら口元から遠ざけた湯呑みの、内側を覗き込んでいる。
「どうした?」
「いや。このところ茶に、何か……、温かいとか熱い、以外の感覚があって気になる」
 ああ、と楠原はにんまりした笑みを、頬杖に隠した。
「美味い?」
「茶にも言うのか。それは」
「言うよ。まぁガキの間は分からない味だけど」
「そうか」
 そうして無表情のまま飲み進める田添を眺め続けていた。


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