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【小説】『姦淫の罪、その罰と地獄』罰ノ九(3/5)

 明治時代の新米密偵、楠原と田添の一年間。

(文字数:約3000文字)


 その屋敷のあるじは長くその土地に暮らし続けたためか、屋内にも庭園の此処彼処にも、亡霊を見るようになっていた。
 厳密に言えば、身体そのものを見れば、亡くなった者ではない。しかし亡くしたようなものだ。今生でまた相見あいまみえ得るとは思えない。
 ある時期までは確かに、ある程度までは上手く、充分に親しんでいるとは言えないまでも不足の無い間柄を、築け切れていたようだった。しかしある時から姿が見えなくなった。母屋はもちろん敷地全体に寄り付かなくなり、使用人たちも彼については、何事も表立って話さなくなった。
「初めから、そのような者はいなかったんじゃないですか。そう思っておいた方が、旦那様も、お心持ちが楽になりますでしょう」
 長く勤める女中頭すらそう言って、苦笑混じりに目を伏せた。
 恨みがましい目つきに、暗い面持ちで出られるのであれば、まだしも主は楽だっただろう。しかし実際は弾けるような笑い声に、愉快そうに立ち回る様ばかりが浮かび出て、どうかするとその後を、ついて歩いて手を伸ばし、声でも掛けそうになったところで、亡霊なのだから姿を消す。
 主自身が殊の外惜しむ姿なのだから、その寂寞は主自らが作り出した、当然の帰結であると言えた。
 足音が聞こえる。
 そう気付いて主は細く目を開けた。敷き延べた布団に臥せている部屋の、障子戸を隔てた縁側に、極めてかすかだが亡霊に悩まされてきた主にとっては、人の足が歩む音以外の何物でもない。
 すぐ傍らの障子戸を引き開け、しかし立ったままで敷居を乗り越えようとはしない。許可を頂けるまでは、入って良いものかどうかを、ためらっている。
「そこに居ても私には見えんぞ」
 声をかけるとごくわずかに、微笑んだように感じ取れた。畳に足を乗せ振り返った障子戸を、端まで閉めた後、腰を下ろしたらしい側の枕元へと主は、首を倒して行く。
 亡霊が血肉を備え、成人した姿形でそこにいた。
「『もうここには来ない』と、言って出なかったか」
 ああ、と思い返した過去に苦笑している。
「あの時は……、ご病気になるとは、考えていなくて……」
「正直に言え」
 主の方でも浮かべた笑みを、驚いたように、不思議なものでも見せられたように、目を丸くして眺めている。 
「死に目に会いに来たんだろう」
「……はい」
 そこで少しの沈黙があった。
 夜の暗がりには相応しい、純粋な沈黙を深く呼吸した後、主から言い出す。
「ひと月ほど前に、おばさんがここを訪ねに来た」
 おばさん、と小声で繰り返したものの、
「どうしても気掛かりな事があると、思い詰めた様子でな。親族の方に引き連れてもらっていたが、義視が応対に出た途端、泣き出したよ」
 思い当たる事ならある様子で、バツが悪そうに目を伏せる。
「『申し訳の無い事をした』と、泣きながらひたすらに、謝られたが、謝らなければならないのはこちらの方だ。目の不自由な者をたぶらかして、お前は、心無い真似をしたな」
 目を伏せたまま黙り込み、謝罪の言葉などは口にしない。許されるなどとは思ってもいないからだ。縮めた両肩を強張らせ、罰が下されるのを待っている。
「お前にだけは聞かせるつもりがなかったものを」
 主が溜息をつくその間に、下唇を噛んだが、
「しょうのない奴だ」
 笑みを見せるとまた丸くした目を、二、三回瞬かせながら首を傾げている。
「機会を見つけてお前からも、謝りに行きなさい」
「はい……」
 人の顔をしっかりと見詰めながら話を聞く子だと、母親が繰り返し誉めていたものだ。いつの間にか逸らすように、伏せるように、背けて直接には見ないようにもなり、そのうち姿までが消えてしまっていた。
 基督教のようなものに、主はついぞ関心を抱けず仕舞いだったが、それはこの国にまだ、信徒を名乗る者たちにすら、その内容が深く浸透していないからだと考えていた。文献を読んでいる限り欧州でも米国でも、真に身に迫って行き届いているのかどうか。
 人は誰しも生まれながらにして、神の前に等しく罪を負う、という思想だ。
 極めて厳しいものであり、字面のみを追いかけていては読み誤るが、要するには、
「お前一人の罪ではない。潤吉じゅんきち
 そこを即座に言い切れなくて、すべての人が、それを当然として肯き合えなくて、飾り立てた教会堂や布教の文言などに、どれほどの意味があるものか。
「私が、付けた名だ。潤吉。それを、私は」
 身を、起こそうとする主の背中を、潤吉の腕がとっさに飛び出たもののように支えた。助け起こして布団の上に座らせた、主の頬には涙が伝っている。
「この屋敷に、連れて来させてからずっと……、お前の目の前で、ただの一度も呼び掛けてはやらなかった……」
 ただの一度でもそれがあったなら、今よりは、ほんの少しでも何かが、上手く運んでいたはずだった。
 両手で口元を押さえ付けて潤吉は、震えながら懸命に、泣き声を殺している。どれだけ叱り付けても構わず泣きじゃくり続けていた者が、今はそんな泣き方しか出来ないのだと分かった。
「許してくれ。潤吉」
 潤吉は、頷いた。
「勝手だが、私を、許してほしい。潤吉」
 口は自ら塞いだまま、何度も何度も、出し得ない言葉の代わりに、頷いた。

 障子戸を閉めるなり、彼は、音も立てずしかし途方も無い速さで、屋敷の内を通り抜け、ブーツの紐を締めるためにわずかな秒数は取ったものの、母屋の玄関口を過ぎ去り表門までを駆け抜けた。
 家人が誰かしら呼び止めたようではあったが、一切構い付けはしなかった。
 とにかく遠くへ。屋敷からは、なるたけ離れる事しか思わずに、ただ両の脚を進め続けた。進め続け尚も進め続け、角に出くわしては折れ、辻に出くわしても行く先など確かめもせずに、ただ屋敷から離れる方へと、歩き続けて行く。
 やがて何処かの壁に突き当たり、右にも左にもそれ以上は進めない、と感じたところで彼自身が、崩れた。
 ああ俺は、嫌っていた嫌っていた嫌っていた。あの家を、あの屋根を、あの門扉を全て、心の底から憎んでいた。
 あの屋敷も土蔵も使用人小屋も、庭園の木々も庭石も池の水も全て、崩れ壊れ果ててしまえば良い! 内側にいる奴等は誰も彼も、ああ俺自身も巻き添えにして、全て滅び尽くしてしまえば良いんだ! それで俺一人が地獄に落ちたって構いやしない。何度生まれ変わったって、生まれ変われもしない地獄の奥底からだって俺は、呪い続けてやると。
 そう腹の内で叫び続けたあの日々は、あの想いは、人に知られないよう流した涙の全ては、たかが謝罪一つの、それもたった名前一つで拭い去ってしまえるほど、容易いものだったか?
 呪え! 恨め! あの程度で済まされるほど、済まし切れてしまうほど、俺の人生は恵まれた、お気楽なものじゃなかったはずだ! それを、まさか、おい、許す気でいるのか? 笑わせる。俺が本気で腹の底から、許し切れるとでも思っているのか?
 そうした呪詛と同時に今一つの、胸の隙間を伝うように浮かび上がってくる、言葉があった。
「お父さん……」
 表の側からはそのひと言だけがこぼれ出た。
 忌々しげな舌打ちが、腹の内では重苦しく轟いたとしても、今だけは、涙と共にそのひと言がこぼれ出し、弱々しくか細い声であっても繰り返され続けた。
 他に言葉などは一切を忘れてしまった者のように。


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